ガツンとゆるい所感

機械工であり、二児の父であり、世界20カ国で遊んだり仕事した旅人がお送りする、仕事や生活での気づきや学び。毎朝7:30に更新していき、1000件を目標に記述を残します。

0320_一年に366日働いた歴史

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マレーシア工場での工場勤務は2年目になり

特に問題なく仕事は順調に進んではいるが、

コロナショックは工業にもしわ寄せが来ている。

 

私たちが作っている産業機械は、時にマレーシア

国内に、そして多くの場合は東南アジアの各国、

時にはネパールなど珍しい国にも出荷される。

 

機械を購入したお客さんは、コロナ禍でも

予定の納期通り機械を欲しがるものだ。

 

なので、40日間稼働が止まっていた工場は

再稼働後の今、信じられないほどに忙しい。

 

それは作業量が多く単に忙しいのみならず

部品が入荷されないうちにどんどんと出荷日が

迫ってくるもので(いつものパターンだが)、

作って仕上げてバラすのに1.5ヶ月かかる仕事が

残り1ヶ月を切った段階でまだ部品が揃わず、

部分的にしか着工できないような状況にある。

 

いつもなら協力業者に部品の入りを急くことで

(元々納期遅れなのをお願いして急いでもらう)

なんとかなることが多いのだが、今回は、

活動制限令下にあって、業者の稼働が止まって

いたりするものだから、どうしようもない。

 

こんなことは初めてだ。と嘆くことすらできず

仕事の段取りや部分的に進められることの指示を

出したりして奔走している。

 

そんな中、尊敬する人物で、いつも同じ工場で

仕事をしている電気技師の方が、"簡単だ、日曜も

頑張って働けばいい"と笑って私に伝えてくれた。

 

私は冗談でも日曜日にまで仕事をしましょう

とは言えなかったが、ダメでしょうとも言えず

話を聞かせて頂いた。すると、私の工場で

働く前、若かりし頃に松下電器の下請け時代が

あったらしく、その頃は一年に366日働いた。

という話を笑いながらしてくれたのである。

 

ちょうど、ハリラヤの4連休に読んだ

「ある少年の夢」に感化され、もっと厳しく

もっと激しく働いてもいいのではないか、と

ゆるいマレーシアに来てたるんだ自分の甘さや

周りに厳しくしなくなった自分を見改めたところで

「そうだ!思いっきり働こう!」と

ついつい乗ってしまったものである。

 

その後工程会議の場を通じて、最低でも週に

一度は休みなさいと上司に諭されたことで、

またあまりに無茶苦茶な出荷予定なこともあり

日曜日はこれからも休むということになった。

 

日本にいた頃、私は自分の存在を一言で

表そうとしたら「優秀な一員」だったと思う。

 

駐在で、更にはコロナの影響で上司だけが

在宅勤務になった今、私は「一員」から、

「一責任者」への道を歩み始めている。

実際に、大急ぎで仕上げて出荷する高価な

機械の出荷責任者は、私になるからだ。

 

実際のところ役職や職責は責任者ではないが

働く気概や、置かれた環境などを考えると

これはマネジメントをする機会がこのまま

来るのではないかと感じさせてくれる。

 

マネジメントをやってみて、「やっぱ自分は

一職人を目指します」となるのかもしれない。

職人の道はおそらく閉ざされることはないので

このまま飛躍してマネジメント層になりたい。

 

さて、話は戻るが、一年に366日働くことは

可能か。考えなくても私には不可能である。

家族と過ごすぶったるんだ休日が大好きなのである。

 

そうなると、1日の総生産を、年間当たり

200日と少しやれば一年分の仕事となるところ、

366日分生産すればいいということだろう。

 

そうなると自力で作っている機械の台数を

今より1.8倍にするよりは、より短時間で

精度の高い仕事を、多くのメンバーで均一に。

進めることができればいいのだと考える。

 

テクノロジーの風が吹き、内から迸る改善意識の

花が咲き誇り、ゴミだらけの工場はのちに

美しい庭のように人を魅了するだろう。

 

ブログなどやっている暇はないのである。

0319_ウォートン流VSある少年の夢

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読んだ本からの自分の中での気づきと、

時間さえあれば本屋に行こう、という話。

 

マレーシアでハリラヤ(断食明け休暇)期間中に

下記の二種類の書籍を読んだ。

 

①ウォートン流人生の全てにおいて

 もっともトクをする新しい交渉術

 (以下、ウォートン流とする)

 

②ある少年の夢

以上。

 

いづれもいわゆるビジネス書、

ノンフィクション作品である。

 

簡単にそれぞれの特徴を挙げる。

①ウォートン流

 表題の通り、"交渉術"についての

 実践的事例や考え方の共有をする洋書

 「何事も交渉が大事、ではどうするか」

 という、読みやすく、実践しやすい、

 典型的な、示唆に富む一冊。

 

②ある少年の夢

 京セラ創業者の稲盛和夫さんの伝記。

 幼少期の頃からの記憶が描かれており、

 京セラの年ごとの具体的な実績はもちろん、

 どんな幹部が、社員が、どのように成長し、

 また壁にぶつかったかが描かれている一冊。

 

どちらが好きか、と人に尋ねられると、

私はウォートン流を今まで適宜読んできたので

ウォートン流かな。と答えるだろう。

 

子育てについても、旅行についても応用できる

術なり考え方が身についたことに感謝するからだ。

 

そして「ある少年の夢」正直に言って

買ったはいいが、読み進める興味が湧いて来ず

"積ん読"の一冊だった。ところがマレーシア駐在

という機会に持って来れる本の数に限りがある

中にも、無意識に持ってきた一冊だった。

 

2020年5月末の時点ではこう感じる。

ここ数年、必要に応じて"何度も"読み、

"実践"し、その試行錯誤から何かしらの"成果"を

得、"恩"を感じてすらいる、ウォートン流。

揺るぎない大切な一冊に変わりはない。

 

しかし、「ある少年の夢」から受けた、

"自分の内からほとばしる仕事への熱意"は、

ウォートン流を読んでいて得られないものだった。

 

休暇を利用してじっくりとこの本を読んだ。

この後に、おそらく困難に差し掛かった時に

対応できる心の強さがもし自分にあるとしたら

それはウォートン流ではなく、ある少年の夢

から受けた感銘に起因すると私は考える。

 

今、悩んでいることは、幸にして少ない。

悩んでいると視野が狭くなるので、今までは

悩む中での時間潰しに、ウォートン流を読んで

来たのかもしれないと感じている。

水際の対策をしてきた感覚だ。

 

ある少年の夢を読んでからウォートン流への

恩義や感謝が揺らいだのではない。何度見ても

"これからも交渉ごとを大切にして人生を

より豊かにしよう"と思えることに感謝する。

 

そこにさらに、加えて。凄まじい疑似体験を

読書からできたという意味で、ある少年の夢は

今の私にとってとても意義深い一冊だった。

 

総じて言えるのは、学者やインフルエンサー

と呼ばれる方々の発信は整理されていて、

手に取りやすく学びやすい。うまくできている。

 

しかし、ものづくりに苦心する私個人にとって

かけがえのないメッセージの発信元は、

"ものづくり企業を自分で築いた生身の人間"だ。

 

「なんだ、メーカーの創業者の本を読むのが

こんなに面白いことに、メーカーに勤めて

8年も経つのに気がつかなかったのか」と恥じる。

 

それはよく考察された下町ロケットでなく、

松下幸之助名言集でもなく、創業者が生まれて

からどう苦難してどう突き進んで来たのか

に焦点を当てたものであればあるほど、

今の私を突き動かす力になるだろう。

 

誰でも、なんらかの"業界"に属したり

"師匠にしたいが、遠すぎる、偉大な存在"

というものがあるはずだ。

 

横から来る誘惑や安直な学びへの勧誘は無視して、

上を。天のように高い"誰か"を見て進もう。

偉大なる内省に読書で近づけるのだ。

 

日本の本へのアクセスが悪いマレーシアに住み、

帰国が禁じられている私でもできることだ。

 

日本にいる日本人ができないことではない。

本屋に足を運び、偉大なる一冊に出会うのだ。

 

過去に買ったピンと来る本は、いつか必ず

自分を救うことになる。躊躇わずに本を買い

忙しさに負けずに本をたくさん読んで生きよう。

0318_言ってることとやってること

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Voicyのモンテッソーリあきえさんという

子育てに関連する知見を発信する番組があり

自分の子育て観を見つめ直すために聴いている。

 

今日は、"子どもが「叩いていい?」と聞いてくる"

という相談だった。相変わらず優しい声で

聴いている大人の私が諭されているような気に

なるとともに、自分にはできていることと

できていないことが改めて分かった。

 

わたしが個人的に印象に残ったのは、

大人の言ってることとやってることの一貫性が

子どもの安心や納得を生むという点である。

 

今流行りの、「心理的安全性」だ。

登校や外出を長期で控えることになっている

私の子どもにとっては、今特に重要に思う。

 

我が家では「片付ける」とか「毎日やることは

休まず毎日やる」ということを、妻が体現して

くれていることから、5歳の娘は毎日やること

(ピアノの練習やひらがなと計算の練習)に

ついて、毎日やることだということを

うまく意識できている。

 

我が子ながらに尊敬するし、続けていることを

無条件に褒めることにしている。

 

私は自分の幼少期がどんなものだったのか

ほとんど記憶がなく、きっと何も考えず、

何も課されず、何も自分から継続してやらず

ただ生きていただけなのだった、と振り返る。

 

毎日やることを、休まずに、毎日やる。

 

これは子どもに伝えるのが、ある人にとって

最も簡単で、ある人にとって最も難しいのだ

と私は気がついた。単身赴任でマレーシアに

5ヶ月間滞在した私の生活は、毎日仕事にいく

ということ以外、何も決まったルーティンが

なく、洗濯を毎日していたくらいで、朝の起きる

時間も夜の寝る時間もバラバラ、家に帰る時間も

バラバラ、"毎日を同じリズムで"ということが

私には心地よくないのかもしれないと感じていた。

 

そこには言い訳もある。心のバランスだ。

あまりきっちりルーティンを決めると、

崩すことに心理的な負担が生じてしまう。

 

仕事柄、今週はタイ、先週はベトナム

来週はガッツリ工場勤務、月末には家族と旅行

というような活動範囲の多様性がある生活が、

むしろ体には心地よく感じるたちなのだ。

 

私は旅行が好きというより、移動が好きで

動き続けることで異様に高揚してしまう。

 

なので私と妻の今の暮らしの違いは、幼少期に

どう過ごしたかということに起因すると同時に

娘の将来も作っていると感じる。

 

"決まったことは毎日やりなさい"と

私は何度か娘に言ったことがあるが、

娘はおそらく私の言うことよりも、毎日

決められた時間に家のことをしたり弟の世話を

する母(妻)の存在を見て、その一貫した姿勢に

学んでいるのだと改めて感じた。

 

言ってることとやってることが一貫するか

どうかはテーマごとに違う点も最後に記録したい。

 

私はどうも決まったルーティンが苦手で

すぐに"我流"を探そうとする悪い癖がある。

 

"何も考えず決められた通りにやりなさい"

と私が誰かに指導しようもんなら、周りは

「あいつは決められた通りやってない」となる

はずだ。だが私はそこを理解しているので、

「決められた手順を徹底して、それを疑い、

失敗を恐れず改善していくのだ」と言っている。

 

私は抗いたいのではない。探求したいのだ。

 

もっといいやり方がないのか、もっと楽に、

悩みながらやっている仕事や作業をもっと

簡単にできないか。それが私の一つのテーマだ。

 

格好をつけて言えば、最適化をいつも

求めている。自分にも、環境にも、だ。

 

それを公言していられるうちは、多少ルール

通りやらなくても「あいつは道を探してる」

と認識してくれるはずだ。

 

結論、自分は手順通りやるのが好きなら好き、

苦手なら苦手、でしっかりそこを一貫して

自分の良き行いにつなげていくのが筋道となる。

 

ある時はやる、ある時はやらない人から

一貫性を見出すのは簡単なことではないのだ。

 

全く我ながらに胸が苦しくなる話である。

0317_相手には5分で分かるから

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誰かと過ごす時に感じることがある

"ご縁"と"選択"だ。私は古風な考え方を

持つ人間だと思う。ご縁という言葉が好きだ。

 

ご縁は自分の能力を超えてもたらされることが多く

仕事にせよ余暇にせよ、ご縁を大切にすることは

物事をうまく発展させるためのコツだと思う。

 

余談だが、ご縁という言葉を好きになった

思い出を紹介する。私は20代後半で、運良く

九州に機械の保守作業を担う技術スタッフとして、

転勤したことがある。当時60歳近くだった

厳しい支店長から、何度も厳しい指導を受けた。

 

その時は本当に、毎日支店長が怖かったし

部活の鬼監督のようだった。尊敬はしているが

いると空気が張り詰めた感じで時に辛かった。

よく京都出身の私に"九州男児はこうだ"と

厳しく自分を律する姿勢を説いてくれた。

 

中にはよく分からない指導もあった。

私が会話の中で妻のことを"嫁"というと

"お前仕事ばっかりで家にも帰らんのに

かみさんのこと見下してんのか"と怒られたりした。

(それ以後はよく分からないが奥さんと呼ぶ

ようにしている。答えが分からなくて別の

既婚者の先輩に何と呼ぶのか聞くと"嫁ぴょん"

と言われたので、考えるのをやめてしまった)

 

ある日支店長にこっぴどく指導された後私が

しょげていたら、支店長が「ん!お前」と言い

壁を指さしたのだ。そこには優しい絵と字体で

書かれた「よっぽどのご縁があって君と僕」

という額が飾られていた。私は男だらけの

狭い支店にあるこの額縁が「誰が置いたのか」

と赴任時から気になっていたが、支店長だったのか

と、またご縁を大事にする人なんだ、と。

怒られっぱなしだが自分を鍛え上げようとして

下さっていることにその時に心底気がついた。

今は離れてしまって、会うことはかなり減ったが

私のことを逆によく褒めてくれるようになった。

 

そんな苦労時代の思い出から、"ご縁"は

自分にとって重要なテーマだと信じている。

 

さて、コロナ禍と呼ばれる今の時代は

面会が遮断されつつあるのが一つの特徴だ。

オンラインで人と面会できるようになると

人は今までよりも人に会うことを"選択"

できるようになってしまう。

 

これまでも人(私)は人に会うことを選択してきた。

SNSが人付き合いの主軸になってから以降は、

どうもこの選択の比重がより大きくなっている。

 

インターネットがなかった私の幼少期は、

友達付き合いにあまり"選択"が効かなかった。

 

仲の良い者も悪い者もいつも一緒にいて

同じ時間を多く共有したので、自我ができた。

 

"こいつ合わないな"と思うクラスメートは

いたが、融和を感じられる学校行事があり

クラス替えの前にはみんなの事が好きだった。

 

これからの時代は、大人も子どももより、

人と会うことを選択できるようになる。

"Zoom飲み"は"こりゃないな"とさえ感じれば

カメラを遮断したりミュート(自分からの音声を断つ)

機能を使ったりして人間関係を、いわば希薄に

する選択は技術的にかなり容易になっている。

 

その人の良さは5分と言わず会ってから

見定めよう、と提唱したいのではない。

 

5分話しただけで自身の人生の濃さや、前を向く

姿勢が相手に伝わる話し方や、体調管理が

今までより重要だ、というのが今日の所感だ。

 

ご縁を大切にしたいから、まだ会ったことのない

素晴らしい考え方・技術を持った方に対面したい

から、自分が尊敬する人に尊敬される存在で

ありたいから。私は、5分で"こいつはつまらん"

と思われない工夫をこれからしていくのだ。

 

初めて会う方だけでなく、久しく会ってない方

にとっても、それは同じ。"久々に声を聞いたら

くたびれていたな"と思われるような振る舞いでは

どんなに充実した今を送っても、相手のために

時間を使えていないことになってしまうからだ。

 

会うからには前向きな姿勢で勇気づけたいし

情報優位性のある言葉や知識を持っていたい。

0316_オンラインでお寺に行く時代

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ヘルシーテンプルコミュニティという

Facebookページに出会した。

 

どうやら、最先端のお坊さんチームが

オンライン会議のZoomを使用した、

座禅をやっているそうだ。

 

私はとくに仏教に対して熱はないが

長く住んだ故郷の京都がたまに恋しくなる。

 

春の桜が最も良いという人は多いけれど、

私はゴールデンウィークが明けたこの季節を

より好む。暖かく、半袖で出かけられるけれど

まだ暑くないし雨も少ない、お寺に行けば

新緑の緑が一番美しいのは5月だ。

 

さて、オンラインで行けるという情報を、

もちろんオンラインで見聞きした私であるが

これは慰め程度にしかならない。

 

しかし海外駐在、とくに今のこのコロナ禍と

呼ばれる渡航自粛ムードにおいては、帰国は

まず諦めて然りで、そうなるとますます

恋しくなるのが自分の好きな街の、好きな季節だ。

 

お寺の和尚さんの声を聞くだけでも癒しだ。

 

慰めが必要な人は、好きな人を探せばいい。

この時期にしか見つからない、移動ゼロの

不思議な仮想世界が今はとても楽しめる時期だ。

 

茂木健一郎さんのVoicyチャンネルや、

Crazy Ken Band横山剣さんのYouTubeなど

私が好きな人の生の声や私生活のような

自然体の姿が急に身近にアクセスできるようになった。

 

本当に便利な時代だ。何でも買えて

誰にでも手が届く気がしてくる。

 

しかし、気をつけなければならない。

お寺の新緑は、映像ではその緑の匂いや

空気感、行き交う人々の表情まで感じられない。

 

慰め程度なら、オンライン。

これは技術がどんなに飛躍的に進歩しても

忘れてはならないことだ。

 

SlackとかZoomがダウンしたから…

といってオンライン結婚式に出席できなかった

というような情の薄い時代が来るのかもしれない。

 

熱くいよう。

そうすれば生身の人間として会いたい人や

訪れてみたい場所はなくならないはずだ。

0315_疲れが吹き飛ぶ言葉

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聞くと誰もが、疲れを吹き飛ばせる言葉。

そんなものは、ない。

 

そんなものは個人から個人への言葉で

あるので、ブログでこれですと言えるものではない。

なので個人的な体験として、記録したい。

 

マレーシアでの活動制限令が40日ほど経ち

4月30日から私は運良く職場復帰できた。

 

現在は段階的な規制緩和ということで、

朝夕の通勤における渋滞も、残業もない生活だ。

 

これはとても心地が良い。

しかしながら疲労困憊である。

 

それはなぜかというと、私が作っている機械を

首を長くして待っているお客さんが大勢おり

そのために"出荷"に追われているのだ。

 

ようやく一つのプロジェクトが出荷まで

行ったかと思うとまた新しいシステムを作り

出荷日が迫ってくる。時にはゆったりとして

毎日のんびりやれば追いつくペースでやれるが

私は職責上、システムの調整と仕上げを行うため

この仕事は何時間あればできる、という

明確な線引きが難しい。人間が作り、人間が

電線を準備し配線し、人間がプログラムを組み

人間がインストールし、立ち上げる機械だ。

人間がやることなので、いつも何かある。

 

そんな時にはなかなかエラーの解除や、

不具合の解消に時間がかかることがある。

その時間は私にとってかけがえのないものだ。

 

日本と違い、マレーシアの上司は私が

一人大ハマりして残業が長引いてもとくに

あれこれ言ってくるタイプの方ではない。

長くマレーシアの地で戦ってきたので不具合が

(日本より)多いことを知っているのだ。

 

さて、そんな私にとって、残業がいくらでも

できた環境は、ある種、温室だった。

時間さえかければ一つ一つの因子を確認して

問題を解決することができるからだ。

(もちろん対応時は楽しいとは感じないが)

 

今の辛さは、時間のなさである。

制限活動令下にあって残業ができないと、

遅くまでやっていることに背徳感を感じる。

 

とくに規制が厳しいわけでもないのに、だ。

これは、"長く時間をかけて自ら苦労して

その分成長して評価もされる"時代を自分は

過ごしてきたのだという実感につながる。

 

さて、この疲れた体と心に鞭を打って

朝は7:00前に出勤をするのだが、今朝は

1歳8ヶ月の長男が泣きながら起きてきた。

 

妻がお弁当を作ってくれていて、ベッドに

いないことに気が付いたのだろう。

妻がベッドに戻ると泣き止み、私は長男に

バイバイ、と言った。すると当たり前だが

長男も顔をくしゃっとして眠そうにバイバイと

言ってくれた。

 

このバイバイごときに私の疲れは

なぜか吹き飛んだのである。本当に不思議だ。

 

子育て自慢、仕事頑張り自慢、浮き沈み自慢。

共感も教訓も伴わない発信で恥ずかしいが

"大切な誰かのちょっとした挨拶だけで、

朝の元気が出ることがある"というのは

私にとって良い気づきとなった。

 

0314_キャリアが嫌か仕事が嫌か

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仕事が嫌になる時が必ず誰しも、ある。

忙しさ、うまくかない、他が羨ましい…

それは、"仕事"を一括りにする言葉のあやだ。

 

朝早く起きるのが嫌なのと、仕事に行きたくない

のとは、実際のところは違うことに気をつけたい。

 

朝早く起きられない技術的・精神的甘えと、

仕事で発揮できるパフォーマンスは異なる。

朝10時出勤になったら仕事が好きになる、

それなら、朝が苦手なだけではないか。

 

体が健康で、パフォーマンスが良い時人は

きっと仕事が嫌だとは思わないだろう。

 

さらには、上司が嫌だ。通勤が不便だ、

最近ではリモートの環境は働きにくい。

など、"社会に貢献していく仕事の目的"とは

全く関係のないものにも、この

「仕事が嫌だ論」は通じてしまう。

 

なので私からの提案として、

 

・キャリアが嫌なのか

・仕事が嫌なのか

 

これを区別して、自分で退路を断つつもりで

考えてみることをお勧めする。

 

私の最大の目標は、世界のどこにいっても

技術力が通用する日本の(機械屋としての)職人

になることだ。これを可能にするのは、

他でもない、私の"キャリア"だ。

 

世界で活躍する職人にはもうなりたくない、と

思った時からキャリアは変化を必要とする。

 

だが、嫌な仕事、はたくさんある。

他人の失敗に気づかず出荷した尻拭いを、

(自分でできずに)誰かに任せることになった時、

あまりに短納期で回ってきた仕事で、

周りは暇そうにしている時。など、

何か相対的に判断して"仕事"が嫌になる。

 

しかし自分で自分を顧みるのだ。

そのキャリアが嫌なのか、と。

その先には闇しか待っていないのか、とも。

 

機械屋としてのキャリアは時に、年功序列

非常に通じるところがある。新しいシステムや

トレンドをうまく捉えてついて行きつつ、

古くなっていく機械のケアも忘れない。

 

ITや芸能と違うのは、私の作り出した機械たちは

長く動き続けるため、古いからダメだということは

なく、むしろ古く安全に客先で使われる機械ほど

多く雇用を生み、機械が価値を生み、富を生む。

 

売ったら食べられておしまいのキャンディを

作っているのではないということだ。

 

その"キャリア"そのものが、私を高いところから

見下ろし、私が高みに登っていくのを

見ている気がするのだ。だから仕事が嫌な時

ほど、この難局を変えることでまた視座が高く

なると。はっきり自覚している。

 

結論、仕事はたまに嫌になる。

しかし、自分のキャリアは自分で面倒を見て

遠い未来にありたい自分へと、自分を近づけて

いるのだ。他人から自分のキャリアをとやかく

言われたとしても気にする必要がない。

 

どうしても先行きが見通せなくなったとしても

私が生み出した機械はものを言わず今日も

明日も世界で働き続けているのだ。

 

私が締めたネジの数はもはや1万とか10万とか

いうレベルではないし、作り出して出荷の責任を

負ったシステムの総額は、どんな高級車を

並べても比にならないほどの価値がある。

 

責任があり、そしてやりがいが数値化できる。

それが私が好む機械屋としてのキャリアだ。

 

売ったのと作ったのとでは、言葉にできない

苦労や分野が圧倒的に違う。海外営業も、

海外での技術監督、自らが作業するのも、

不具合があってお詫びとやり直しに海外へ

飛んでいくのも、全て経験している私がそう

感じているのだ。経験に尽きる。

 

その経験の多くは、「嫌な仕事」がもたらすのだ。