ガツンとゆるい所感

機械工であり、二児の父であり、世界20カ国で遊んだり仕事した旅人がお送りする、仕事や生活での気づきや学び。毎朝7:30に更新していき、1000件を目標に記述を残します。

0089_自由参加について

私は自由参加にはあまり参加しない。

 

本当は心の片隅で、何にでも気楽にまずは

参加することで幸福が訪れるかもしれないと

感じるところはありつつも、簡単で気軽に

得られる幸福は娯楽か消費だと決めている。

 

社会に出てからしばらくは、身銭を切って

何かを体得しようという気骨が欠けており、

このような、飛び込みやすいキャッチフレーズ

を求めていたことを振り返ることができる。

 

運命は、まず誰かが与えてくれるところから

始まると本気で信じていたのであろう。

 

しかし競争が激しい世界でその考えでは

突破できない壁にぶち当たる。仕事、趣味、

交友関係、自分の財政基盤、と全てを潤滑に

好転させていくには、"与えられ待ち"の状態

では限界があるためである。未だにその

全てのサイクルをうまく回せた気でいないが

 

・"好き"をとことんやり、"嫌い"はやらない。

・大切な人にとっての"嫌い"は自分がやる。

 

というとこで周りも含めうまく回っている。

 

さて、今回のテーマの自由参加についてだが

どちらかというと自由参加をうたって参加を

呼び掛けたい側に私が伝えたいことを述べる。

 

自由参加のイベントで対立が起きるとすれば、

以下の二つの意見の食い違いが元となる。

 

・自由参加なんだから気軽に来てほしい。

・自由参加だから行かなくてもいいでしょう。

 

私は完全に後者だ。なぜかというと時間を

消費することになるからである。

 

この記事の冒頭に私は、昔は与えられ待ちで

身銭を切って学ぼうとしなかったと述べたが

それと逆のことを今は考えている。

 

お金は使っても取り返せるが時間は失うと

取り返しようがない。VOICYのかほこママの

言葉に深く納得する。誰もが知っていつつも

知らないうちに失っていくのが時間だ。

 

その時間を惜しむように使うので、

使った時間分、自分や周りが幸せになることを

期待して参加できるものが良い。

 

なので出来る限り具体的な夢を持ち、

持った夢のためのステップとして目標を持ち

その目標を叶える為に習慣を生み出し、

習慣をこなしながら時間を大切に使う。

 

私のような二流サラリーマンであっても

生活の中のルーティンや余暇の過ごし方の

基本姿勢がある。そこへ自由参加という

安易な誘いを頂いても受け入れ難いのである。

 

逆に、それなら参加しようかなと気が乗り

やすい設定は(個人の意見だが)早朝であること

や、きちんと会費を取って、何か対価を用意

してある上で誘われるイベントごとである。

 

早朝なら元々の予定を立てることが少なく、

会費を取るものであればきちんと評価できる

からである。勤め先ではそのような工夫が

されており、自由参加と言われる催しでも

たくさんの人が集まる工夫がされている。

 

例えば、"ボジョレーヌーボーを味わう会"

という会が開かれるが、これは何年か開催

されていくうちに定例化され参加者が

増加傾向にあるイベントだ。私は昨年

初めて参加したが、秀逸なイベントだった。

まず、業務後に社内で開催される点。

無駄な移動がないのですぐ行けてすぐ帰れる。

次に、世界のチーズが味わえる!というもの。

ワインが飲みたくない人でもチーズ目当てで

参加しやすいということだ。

 

会社の仕事に関心は高い反面、会社の人とは

無用にコミュニケーションを取りたくない私

であっても、横のつながりの大切さは重々

知っており、適度につながりは保っている。

 

業務中に無駄な私語を挟むのが嫌いなだけで

目的や嗜好の合う仲間とはいつまででも

いたいと思うのだ。もちろん自分の夢のため。

 

結論、自由参加を呼びかけて頂けるのは

ありがたいと思うようにはしているが、

やはり無駄な時間使いはお金の浪費より痛い。

 

呼びかけて頂くのであれば、

最高の段取りと感動を用意したので、

お金を出して参加してください。その代わり

損はさせません!という内容であれば考える。

もちろん、いや、損するがなと判断したら

丁重にお断りをするだけだ。

 

ゆるくやってるんでよかったら来て下さい

ってのは今後も無視し続けるだろう。

 

同じような理由で、無料見積もりという

広告にも全く目を向けないことにしている。

わざわざ何かを売りつけてくる相手に

こちらから飛び込むような暇はない。

 

時間はかけがえがないものだ。

平和も友好も健康もいつ崩れるか分からないし

時間を失ったことを知るのは残り時間が

足りなくなった時だからである。