ガツンとゆるい所感

機械工であり、二児の父であり、世界20カ国で遊んだり仕事した旅人がお送りする、仕事や生活での気づきや学び。毎朝7:30に更新していき、1000件を目標に記述を残します。

0302_ら抜き言葉と方言について

f:id:DAZAIFIC:20200416122533j:image

 

ら抜き言葉について知ったのは

(そこまで育ちが良くない私にとって)

25歳かその前後だった、と記憶する。

つまり、日本語を習得してから20年以上、

"ら抜き"か、"ら入れ"かを考慮したことが、

またはそんな技術を伴う約束事があったことすら

知らなかったのである。親からは教わらず

学校の話は聞いておらず、日本語はただ使えれば

いいだけだと私は思っていたのだろう。

 

現在、箸の持ち方にせよら抜き言葉にせよ、

私は「基本」に忠実である。無理をして

口どもったり、他人の動向を気にするまで

ではないが、自分が基本に忠実かどうかに

ついて、注意を払っている。例えば、

「バナナだいぶん黒いけど食べられるやろか?」

というような問いを妻に対して投げることは

日常の中で基本となっている。

 

ここで日本語という観点で注目できるのは

・「やろか?」の部分は完全に関西弁である。

・「食べられる」というのは"ら入れ"の

 基本に忠実な(ら抜きしない)言葉遣いだ。

 

「食べれる」と、子どもの時から"ら抜き言葉"を

使ってきた私は道の途中で"ら入れ"の方が美しい

と判断して自分の言葉遣いを正した。

ところが関西弁に関しては、「標準語の方が

美しい、日本人にも外国人にも聞きやすい」

ということを知っていたとしても、変えない。

 

"より丁寧で聞こえやすい日本語は理想"と

自分の力を精錬する気持ちがある一方で、

"関西弁は基準より砕けた形でも気にしない"

という、その方が生きるのが楽しいから。

という哲学が私が使う言語を今の形にした。

 

もちろん、この言語体系は私だけのものではない。

類似する着想を持つ人は周りに多くいる。

 

工業高校を出て、いわば勉強をろくにしなかった

だろう先輩方でも、"ら抜き"を使わない先輩が

いる。彼もおそらく、より丁寧に言葉を扱う

という誰かの姿勢から、"らを入れる派"に

転じたのだと思う。これは箸の持ち方とは全く

違う。"ら"はあってもなくてもいいのだ。

ただ、文字にしたときには"ら"はあって然り。

それなら普段から入れとこうというのが

"より丁寧で見栄え良く合理的であること"を

期待する、技術者の中には多いのかもしれない。

 

私を含む日本人技術者の根底にあるのは

驚くような頭脳による明晰っぷりよりもむしろ

普段からどれだけ丁寧に過ごしているか

というところに終始すると私は考えている。

 

長く履いている靴が綺麗な人ほど、

丁寧に慎重に生きているのと似ている。

 

雑にさっさと生きてきた私はそんな人に憧れて

技術者になった。まだ間に合うと信じている。