0260_一匹狼とはどんな人間か
自分は一匹狼だと思っていた期間は長い。
それは義務教育期間や、好きで参加している
サークルや語学習得のコミュニティも含む。
会社勤めや地域社会においても同様だ。
自分は自分の指針に沿って動くのであって、
他人に動かされたり他人の時間の中に組み込まれる
くらいなら、何にも属したくないと感じる。
これがわがままで配慮のない行動になって
周りから少し冷ややかな目線を感じる。
しかし自分でも驚き呆れるほどに
その目線には全く動じない。その結果に悟る。
自分は、一匹狼という人種なのだ、と。
しかし一匹狼を長く続けてきたつもりだが、
冷静に自分の状況を考えると、本当に一匹狼か
どうかは判断が難しい。
妻と2人の子どもがいて、上司や同僚がいて
お客さんや協力業者との信頼関係に注意する。
そして自分も仕事の大きな流れの渦中で
(群れることはできなくても)利他の心を持って
自ら働きかけることを楽しんでいる。
自分は自他共に認める一匹狼タイプだが
置かれた状況から見ると決してそうではない。
1人の人間が一匹狼かどうかを決めるのは
他人から受ける感謝の量や質だと私は考える。
自分の行いで具体的な誰か1人の人物に、
利他の心を持たすことができるかどうか。
それが一匹狼かどうかの判断基準だろう。
最も一匹狼でないと気づくのは子育てだ。
子どものためを思って楽しませたり優しくしたり
したことは必ず自分に帰ってくる。
ありがとうやおはようの言葉それだけで分かる。
同僚とのやり取りでも、自分がやって欲しい
仕事をお願いした時に、喜んで引き受けて
くれる時は、自分は全く一匹狼ではないと
自覚できる時だ。この些末な文章を読む
その端末の前の貴方ですら、私との関係に
おいては一匹狼ではない。私は例えその数が
1だとしても、記事に対してのアクセス数が
あることを喜ばしく思えるからである。
結論、世の中に一匹狼はいない。
しかし、一匹狼を演じて排他的になってしまう
ことはよくある。それは一種の認知(知覚)の病だ。
私が忙しさの中でよく患う、風邪のようなものだ。
しかし、何にしても辞めなければ必ず
自分が一匹狼だなんてなんて事を考えていたのか
と周りに感謝できる日が来る。それが
合格だったり、結婚だったりしなくても
大切な誰かの死や、何かの終わりかもしれない。
私はこれからも、たくさんの感謝すべき人の
取り巻きの中でひっそりと一匹狼肌でい続ける
だろうが、本当は一人ではないと喜べる。
だからどうか、一匹狼気取りの虚しい人間を
見かけたら、うまく利用してやって欲しい。
彼ら(私)は人からの助けを待っているのだ。