0310_外出禁止生活を経て
2020年3月18日から始まったMCO
(Movement control order)は3度の延長宣言を経て
5月12日まで続くことが4月30日時点で決まっている。
外出規制の対象期間中ではあるが、
勤め先の工場ではいち早く、期間中のやむを得ない
稼動再開の申請をしており、更に運良く許可され
4月27日より段階的な稼働再開へと至った。
これから日本が取るだろう段階的な緩和処置と
(あるいはこれから未来に渡って長く続く処置と)
類似してくる面もあるだろうから、記録しておく。
その前に私の仕事をおさらいに記録しておこう。
私の勤め先のメーカーの生産現場、工場では
約20名の現場作業員が機械を手で作っている。
加工部門がレーザーやブレーキを使い、
自分たちで板金を曲げ、購買部門はマレーシアの
加工メーカーに製作を依頼したシャフトや
波板などの部品を調達し、また日本から
シリンダやモーターなど市販品を輸入し、
私が所属する生産部門がそれらを組み立て、
また協力業者の電気技術者たちが配線工事をし
入電後の調整をし、機械の出荷準備をし、
納品をし、修理をする。とそんな流れである。
私の仕事はつまり、目の前の部品を組立し、
また目の前で壊れた機械を直すこと。
"リモートワーク"できるものではないのだ。
とはいえありがたいことに技術の進歩が手伝い、
自宅にいても資料を作成したり、客先に
納品された機械の稼働状況をリアルタイムで
見ることができたり、リモートでできることもある。
さて、ではこの40日間で何をしたかというと、
技術資料を6種類ほど、英訳したことと、
ごくたまにある問い合わせに対応したこと、
前から見ようと思っていた勉強会動画を見たこと
業務日報を見たことなどだ。おそらく1日に
1時間働いたかどうか、というのが正直なところだ。
しかし私は30日過ぎた頃に胃炎を患った。
酒を断ち、子どもと楽しく遊び、妻を労り、
上司や会社からは仕事の圧力どころか、
「こんな時だから家族優先で」と労られ、
家は広く快適で、とにかく、自由だった。
それでも1日1時間働けばいいという感覚では
なく、"自分から何も価値を生み出せない"
という自責の念に近い気持ちから、夜には
多くの仕事にまつわる怖い夢を見続けた。
復帰したがうまく手が動かない、忘れている、
困ったお客さんを前に機械がわからない…
といった、敗北感を伴うような夢だった。
私は今まで社畜と呼ばれる人間を下に見てきた。
会社の愚痴を言い、日曜夜に憂鬱になるような
弱い男は相手にしないという、自分の中で
働くことの前向きな信念を持ってやってきた。
ところがこの胃炎や寝た後の悪夢といえば、
元気な社畜よりも、不健康な体裁であった。
働きたいという欲望に勝るものはない。
労働を課されたいのではなく、とにかく
誰かの役に立つことがしたかった。
いくら稲盛和夫さんの伝記を読んでも、
YouTubeでエレクトロニクスの解説を聴いても
明日も明後日も工場で働くことはできない
という事実だけが自分を苦しめ続けた。
周りの仲間たちはどんな風に過ごしたのだろう。
会社は学校ではない。第一に力が試される場所で、
自身の成長で以って社会に貢献するための舞台だ。
とにかく仲間の一人でも多くが
何もなかったかのように出社し、
これからも何も悪いことはないと言わん表情で
失った1ヶ月半を取り返す仕事をしたい。
現実、混乱は目に見えているが、
今まで忌み嫌い続けたマレーシアのゆるさが
この再稼働にはうまく作用し、ストレスなく
ゆっくりと元の生産に戻っていければと願う。
こんな時にでも人の役に立てるネットワークを
持っていればよかった。自分がやったのは
クラウドファンディングや募金程度のこと。
絵を描いたり、新しい出会いを探したり、
恩人たちに感謝の念を抱いたりして過ごしたが、
やはり基礎となる仕事が進んでいないので
どれもその場しのぎの暇つぶしだった。
(後になって格好をつけて"種まき"と表現する
のだろうが、実際の気分は敗戦処理に近かった)
祈るしかない要素を多く作る人生は、怖い。
未来の自分(と家族)は今の自分が守らなくては。
頑張ろう。