0072_年神様を迎える
本日から仕事始めである。
このブログを始めた一年前に、
初出式の様子を記録したことが記憶に新しい。
転居・転職しようか考えた2018年だったが、
今年も同じ初出式に参加することとなり
なんとも不思議な縁を感じてしまう。
転職活動で給与を上げようとするよりも、
生活基盤を強くする、他の可能性があるはずだ
と熟考し、転職活動は止めたので、
来年も大きな動きがなければまた同じ
初出式に参加することになるだろう。
職場で毎朝行われている、活力朝礼では
「職場の教養」と呼ばれる小冊子を輪読し
朝から呼吸を合わせる作業を行う。
その作業自体は、よく言えばスポーツの
強豪チームのようで、悪く言えば刑務所だ。
良い風に捉えることにして、私はその中で
エース級の選手の佇まいを考え参加している。
その中に、日本人はなぜ大掃除をやるのか
という文章があり、それは学びになった。
普段掃除や手入れをしない道具や部屋などを
隅々まで綺麗にするのは、年神様を迎える
ためだということが表現されていた。
納得。年神様のためだと思ったことは初めて
だが、言われてふに落ちる自分は、日本的だ。
強く謙虚な者は、神様を邪気に扱わない。
神様を信じ切ってそれのために大切な
食べ物や時間を捧げるというよりは、
自分の成功や周りのありがたい存在に感謝して
これはもはや自分の力ではなく、神の力だ。
といえるような不思議な縁や運に生かされる、
これが大きな成功を掴む人物ほど、
ありふれた考え方なのだろう。
家族の数や住居で過ごす時間が少なければ
簡単な清掃で済むかもしれないが、子どもたち
が自由に暮らす家では、何かと物が増える。
子どもたちに掃除を教えるのにも良い機会だ。
京都市に住んでいるといくつかの噂を聞く
ことがある。それは誰もが知るような大企業の
トップの方や、有名なアスリートの方などが
寂れた(旅行雑誌に載せられることがない)禅寺
にわざわざ足を運び座禅を組んだり、
また決まった日時に決まった神社に参拝したり
そのような最高の裏側の非公開なルーティン
を行なっているということだ。
それは献金でもなく、ファン感謝でもない。
神や大自然の力を借りたり感謝したり、
言葉にうまくできないが自分を通じて
宇宙と繋がるための時間を待つために、
忙しい世界を抜け出しわざわざやってくる。
というような噂である。
さて、その年神様を迎え入れるという所作だが
自分の家に神様がやってくる感覚を持つ
なんていうことが一般的にあるだろうか。
何となく人と接するのを避けて本読んだり
神様や宇宙の力を信じたりする私ですら、
家に神様を迎えようという考えはない。
しかし、客人の来る家に幸福が来る
という考えはここ数年大切にして、実行
し続けているため、迎え入れる気概はある。
今年こそ神様を迎えよう。そんな気待ちで
昨年末の大掃除を行なったことを思い出す。
私は人付き合いにおいては無神経と言われる
ことがあるが、物質的には神経質な性格だ。
仕事柄仕方ないかもしれないものだが、
店の椅子が軋んでいたり、すれ違う自転車の
タイヤに空気が満たされていなかったり、
雑踏の中で知らない人の靴紐がほどけたり
そういう些細で物質的な変化に気づきやすい。
神様を歓迎するためにその気づきを生かそう
という話ではないが、私がもし神様なら、
細かい気づきと配慮のある地に訪れたい。
新鮮な空気を取り入れる窓のサッシや
網戸が埃まみれでは、気持ちが悪いのだ。
神経質でい続けることは危なっかしいことを
避けることだ。そしてそもそも神経とは、
神が通る道。神は細部に宿る。とも言う。
今年一年がどうなるか、毎年変化と繁栄を
喜んで年末を迎えるここ数年であるが、
平和を尊びつつも自分らしい、国際的で
旅の発見や出会いの感動を喜べる、
劇的な一年にしたい、と改めて感じる。
一年の最初に神様を招いたのが良かった。
と言って来年に向けて大掃除をしたいものだ。