0078_自己肯定感について
自分はダメだなぁというマイナスの感情と
自分には価値があると信じるプラスの感情。
自己肯定感について今回は記録したい。
自己肯定感とは、先に述べた自分が有用か
無用かを自分自身を評価することで、
相対的にこの人は自己肯定感が高いから
どうだ、低いからどうだと周りが議論する
ようなものではない。あくまで自分の中での
出来事で、もちろん成長に応じて変動する。
私は、現在のところ自己肯定感を高く
保っていることを認識している。その理由は
会社員をやっていて、勤続7年の勤め先で、
自分から自主的に周りに働きかけることをし
上司や経営陣から何かをやらされることが
なくなった状態であるからだ。勤続7年だが
勤続4年ごろまでは自己肯定感としては
ゼロから始まっている。生活は辛かった。
何より、自分の夢が叶い、崩壊し、挫折し
会社の中で誰も信じられなくなり、華のある
海外営業という職から工場現場作業員に
コンバートされたのであるから、あの暑い夏や
寒い冬を越えて、誰も信じなくても自分の力を
信じようと立ち上がったところから自己肯定は
始まったのではないか、と振り返る。
私は高給取りでもなければ、誰もが羨むような
天才肌ではない。おっちょこちょいで冷淡で
さらには集団行動が苦手な性格である。
しかし社交的でもある。利害関係が発生
しにくい近所づきあいや学生時代の友達、
さらには親戚や旅行でできたつながりなど、
トモダチ付合いは苦手ではない。そして
相手を喜ばせることが好きな気質がある。
先に触れた挫折と苦悩の末にようやく
自己肯定ができるようになったのは、二つ。
一つは数人の恩人のおかげ。もう一つは
厳しい格言や歴史からの教訓を学ばせてくれた
書物である。私は社会で自分を高めるために
和やかに笑いながら暮らしつつも、心の奥底で
肝に命じておきたい二つの座右の銘がある。
・信じなければ裏切られることはない。
・人は人を救えない。救えるのは本だけだ。
この二つである。めっぽう暗い考えだ。
私自身が暗く悲しい人生かというと
決してそうではない。妻も娘も息子も、
よく笑い、社交的で周りの人に恵まれる運命を
背負って明るく生きていくような性格だ。
私もその家族の舵をとる上で、心配はするし
家族を守る上で備えたり計画したりして
最低限兜の緒を締めて生活しているが、
いつも家族が楽しめることを考えて、
妻や子の楽しみを全力で応援している。
しかし、信じなければ裏切られることはない
という座右の銘は仕事の上では私にはかなり
効果的に作用しているのである。例えば
新規要素の機械を組み立てていると、
工期が厳しい、設計不良がある、部品納期が
正しく設定できていないなど、外部要因で
発生するストレスが多々ある。
私はこれに対し、まず他人の仕事を信じない。
たとえば50個の部品があれば、50個本当に
入っているのか、使う前に確認をするし
設計不良があれば致命的に仕事が止まる
機械の躯体部などは、仕事が始まるずっと前に
怪しいところがないか図面を確認するし、
新規要素の設計はそもそも新規要素にすべきか
誰も議論することもなく始業前や休憩時間に
調べて自分の不安を解消して仕事に備える。
自己肯定感というのは、不意に訪れる
トラブルや失敗によって傷がついたり
揺れ動いたりするものであることを私は
何度も自己否定する中で学んできた。
気遣いと段取りの視座を高めていくこと。
この気概を強く強く持ち続け行動すれば
不意に訪れる出来事も学びに変えられる。
学ぶ姿勢を忘れて他責の姿勢になったり
謙虚さを忘れて強欲や恐怖に対する自分の
感情を爆発させてしまえば、その場と時間は
流れていくが、後に自己否定感が残る。
自己肯定感を保つことは冷静でいられたり
他人の評価を無用に気にかけたりしなくて済み
自分の役割や目標に注力できることに繋がる。
そしていきなりの挫折や続く苦悩の日々は、
落ち着いた一皮向けたカッコいい大人への
飛躍の機会であるものだ。私自身自己肯定感を
高く保つことに喜ぶ一方、先に叶えたい夢や
その夢までの霧がかかっているような高く
長い道のりへの不安な気持ちを持っている。
これは俯瞰してみると、今の私の宝である。
仕事や人生は長い長いゲームのようなもの。
このゲームは攻略しても終われないものだ。
そこに登場し続ける自分の心も、周りの心も
いつも灯火のように揺れ動くものである。
少なくとも自分の灯火だけは安定させたい。
自己肯定感を高く保てない時期は、
必ず後になってそのくのうが宝になる。
貪欲に試練を見つけて逃げずに戦い続けよう。