ガツンとゆるい所感

機械工であり、二児の父であり、世界20カ国で遊んだり仕事した旅人がお送りする、仕事や生活での気づきや学び。毎朝7:30に更新していき、1000件を目標に記述を残します。

0327_鶏の部位と値段の話

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マレーシアの鶏には12の部位があり

主に四つ使われるという。価格はおよそ

1.2kgの丸買いで20リンギット(約550円)か

その上下で購入可能、200gほどは捨てる

箇所になる。という話を技術者から聞いた。

 

これがとてもわかりやすく感動した。

 

自分ならこれを、"そこそこ使える部位が

多くあり、値段はそう高くなく、捨てる部位は

そんなに多くない。"というような曖昧な表現に

なったかもしれない。

 

数値を交えて話すことそのものが、

物事を捉えられているかどうかだ。

 

ちなみに、鶏胸肉はチキンブレストと言うが

日本なら相場は片方の胸だと思う。

マレーシアは胸肉を頼めば両胸くるので

頼みすぎに注意だ。頼みすぎとは?そう。

 

コロナの影響での外出規制も手伝い、

かなりの機会が増えているのが、DMでの

マーケティングである。Whatsappという

LINEのようなコミュニケーションツールを

使い、販売者と直接やりとりをする。

 

販売者とは友達とやり取りするように、

胸肉何g、いつ入荷分と頼み、大方の販売者は

自宅までそれを運んできてくれて、

物と引き換えに現金で支払う。

 

鶏屋がいて、パン屋がいて、野菜屋がいる。

他にも弁当屋やお菓子屋も、小額の取引から

自宅まで届けてくれるサービスを、

日本人にとっては破格といえる価格帯で

受けることができる。本当にありがたい。

 

マレーシアだけでなく、在外国の日本人の

中には、こうしたローカルのお得情報を得られず

不便していて帰国を考える、実行する人もいる。

 

自分たち家族は今、繁忙もあり帰れない。

だから嘆くのではなく、生活を工夫する。

 

困難に直面した時は、誰かブレークスルーを

実践している人の真似をすればいいのだ。

最低限の語学力があれば、何でもできる。

 

 

0326_挑戦の結果発表

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5月から取り組み続けた長い挑戦。

実際のところ、自分であれこれと言い訳をし

本当は6月にでもできた"応募"を、

10月まで先延ばしにしていたのだ。

 

ライバル、という雰囲気はないが、

一緒に切磋琢磨する環境にあった

"研究生"たちは、すでにたくさんの成果を

あげ、卒業、年末のフィナーレに向けて

着々と準備を進めている。

 

自分が不甲斐ないとか、

自分はこんなところがダメだ。

という気持ちは今のところない。

 

"手当たり次第精一杯やった"感覚はないが

私が参加したクリエティブな活動の場では

積極性よりも、いかに自分独自の創造性を

無理なく発揮できるかが重要と捉えていた。

 

結果、机上であれこれ考えるばかりで、

または自分の中にある尖った創造性を

表に出すことが最後まで怖くて、

5月から10月という長きにわたって、

ただ仲間の活躍を応援していただけだった。

 

今夜その結果が発表される。

その結果には二つの回答しかない。

一つは合格という、長きに夢見てきた

あるプロジェクトのゴーサイン。

もう一つは不合格という、もっと長きに

渡って費やしてきた"普通の生活"の継続だ。

 

仲間に恵まれ、費やしたリソースも少なく

怖さや傷がつくプライドもない。期待される

不合格の烙印というのは精神的な強さで

また乗り越えて次の挑戦に生きるだろう。

 

しかし、心の底から合格の声が欲しい。

 

周りからの目が、とか。合格したらもっと

大変な職務が生活に増える、とか。

誹謗中傷の的になるかもしれない、など

リスクを考えたら不合格の方がむしろ

"今の生活を変えなくて済む"のだが。

 

今の生活や、期待されるプレッシャーや

合格した後の失敗やゴーサインが出た後の

将来のクローズの予感など、先を見ると

不安なことは枚挙にいとまがない。

 

ただ、長年夢見てきたこと。

そして今はそれに挑戦できれば、

もっと明るい未来を自分で切り拓ける

根拠のない自信があること。

 

"合格"か"不合格"か。

それがわかるまでは現実を知らなくていい

一番いい時間なのかもしれない。

 

0325_貴方が英語を学ぶ必要はない

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2019年4月に始まったマレーシア生活。

1年と4ヶ月が過ぎた。家族が家にいるので

日本語を使わない日はないが、日本人の上司が

一時帰国となったことで、私は現在出向先の

現地企業にただ1人の日本人として働いている。

 

そうなると、やはりコミュニケーションは

英語が主で、英語を使う機会は増えている。

日本語が話せる現地人はいないからである。

 

本日は英語学習について思うことを記録したい。

 

英語学習についてたくさんの挑戦をこれまで

私はしてきたし、これからも力をつけたいと

思っている。ちょうど我が子が簡単な英会話を

身につけつつある様子を見ていると、やはり

"やれるか"は"やるか"に起因すると感じる。

話せるか、は、話そうとするか、ということだ。

 

結論。外向けに発信したいこととしては、

「必要にかられない限り、"英語の勉強をしたい"

という欲求は持たなくて良い」ということだ。

 

それは私における"中国語"にとってかわる。

 

このコロナ禍で、中止になってしまった出張が

ある。それが中国本土での大型プロジェクトだ。

 

その納品出張メンバーに内定した途端、

私は"必要に駆られた"のだった。そして数日間

地道に勉強をし続けた。危機感が勉強を

させたと言っても過言ではない。

 

納品メンバーもお客さんも誰もかもが英語を

得意としないという予見ができたのからだ。

それなら自分が中国語を話すより他はない。

 

ところがいざ出張予定がなくなると、

"必要に駆られていない"ので、なかなか、

記憶に残そう、隙あらば練習しようという

意欲が自然に減退していっている。

 

七夕に書いた短冊がまだ壁に残っている。

"英語と同レベルで中国語を使うようになる"と。

 

2週間ほど経ち今でも勉強を続けてはいるが、

必要に駆られていない勉強は身が入らない。

 

これは日本人の多くに共通する

"英語ができた方がいい"感覚に近いだろう。

 

私は日頃必要に駆られて色々なことを調べる。

Determinって何?鳥のムネ肉ってなんと言う?

使う必要があるからこそ、一生懸命にやって、

それを経験として自分のものにできるのだ。

 

ラジオアプリやYouTubeで、「今すぐ使える

英会話」を見たとしてもそれは必要に駆られた

日本人以外には、全くの娯楽と化すだろう。

 

そこで必要となるのは、"必要に駆られた状態"

を人工的に自分で作り出す情熱だと私は考える。

 

好きな映画俳優のインタビューを聴きたい。

今すぐにでも行ってみたい街の情報を

英語情報で調べて好きなあの人に披露したい。

 

"こんなのあったらいいな"という生半可な

望みでは、おそらくそれは続かないだろう。

 

なので、やはり結論は変わらず。

英語が必要とされることがない日本人は、

英語ができなくても何も心配しなくていい。

 

必要に駆られるという時は必ず、

誰か人のためになれるという時である。

 

その時のために娯楽の学びに時間を費やさず、

家の前の掃除の一つでもしたほうが

かえって国際人の仲間入りへは近道である。

 

人生に必要なことは何かを考えるのも大切だ。

0324_この2ヶ月何をしていたか

充実していた2ヶ月だったが、すっかり、

ブログを更新する習慣を忘れていた。

というのも、文字で記録をするこのブログから

音声で何かを伝えるプロジェクトに参加して

"声"を学んでいたからだ。

 

機械造りの職人の仕事をしている私だが

晴れてSlackやZoomやspatial chatなど、

今IT界隈の人が必需品として使っている

アプリケーションとその運用なども学べた。

 

この先どうしていくということで特に決まった

ことはないが、このブログは引き続き、

長男が将来見て、父の頑張った30代として

宝物にしてもらいたいのでゆっくりと

記事1000件を目指して続けていきたい。

 

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0323_ご迷惑をおかけします観

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マレーシアの工場でものづくりの現場仕事を

していると、よく加工不良や納期遅延などで

前工程後工程に"ご迷惑"が及ぶことが多い。

 

何でこんなにグダグダなのか?と

赴任した当初は不思議で仕方がなかったが、

色々と自分なりの理由をつけて納得をしてきた。

 

・気候が温暖だから人の危機感が薄い

・人に怒らない、人を責めない文化がある

・下請け、孫請けの作業者は移民で、育たない

 

今回記録しておこうと感じたのは、珍しく

日本人とやりとりをすることがあったこと。

 

私がマレーシアで使用している日本製の機械、

ブレーキという鉄板を曲げる機械がある。

その修理は原則取引先の日本人にエラー内容などを

問い合わせすることになっている。

 

そこで、日本語でこのメッセージを受け取るのだ。

"ご迷惑をおかけしてすみません"と。

 

メーカーではよく、こんな話を耳にする。

ヨーロッパの機械は基本的に売ったら終わりで

買った側が自分で面倒を見る文化に対して

日本側は買った後のアフターケアが秀逸、と。

 

つまり、メーカーからしてみると、自社から

出荷されて納品後に使用されている、権利も

現物も何もかもお客さん側に渡っていて、

自分たちは製作しただけ、という見方もできる。

 

それでも買った人が長い年月を経て感じる

不具合や改善点に対してはとても真摯だ。

 

現に私がいま修理対応のやり取りをしている

ブレーキはもう生産から15年ほど経つ年期ものだ。

 

それでも、15年経った機械が無事に動かない

ことに対して"ご迷惑"を詫びる文化が日本には

ある。これは驚くべきことだ。

 

私たち若い社会人が時よりいつまで経っても

子どものような扱いを受けるのに対して、

「売ったら終わり」の国々は生まれた時から

子ども扱いはしないという。それは"個"に対して

強く揺るぎない信念があるからであろう。

 

対して日本人の感覚では、自分から生み出した

もの、育て上げた人は、いつまでも自分に

帰属し、面倒をみたくなるのではないか。

 

どちらがいいかと言えば、私はいつも中庸で。

 

"ご迷惑"をかけられた感覚はない私には、

このご迷惑をおかけしますという言葉は少し

度が過ぎる印象と、心からそう思ってる?と

疑問に感じてしまう感覚がある。

 

他方で挨拶程度にでもこの言葉を言える日本語は

美しいな、とも感じる。良くも悪くも、

相手を信用し頼りたくなる心理が働く。

 

自分は圧倒的に、メーカーに問い合わせるよりも

メーカーとして問い合わせられることが多い。

 

しっかりと前工程・後工程を見て、

みんなで和を重じていいものづくりがしたい。

 

謝るべきだ、とか。責任を取れ、と

ヤジを言う日本人が多いのも事実だ。

しかし、その群れを見るより先にまず

ご迷惑をおかけします。という心から相手を

思いやる日本語を使える美しい日本人に

出会おう。それは、インターネット上にある

多数の文字の羅列から見つけるのではなく、

美しい個人同士が投げ交わす、美しい日本語だ。

 

今日も明日も言葉遣いや細かい所作の中に、

配慮や感謝が表せられるよう丁寧に生きよう。

0322_楽しかったという意見

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よく、"自分がお客さんではダメだ"と考える。

 

テレビを見ていて、どうやったら番組を

作れるのか、どうやって司会を進行するのか

どんな原稿や台本が、照明が、スポンサーが、と

自分が手がけるつもりでテレビを研究するのは

テレビを見る価値が大いにある。その先には

業界の仕組みや利益追求の実態を学べるからだ。

何よりテレビ番組を作る側のドラマがある。

 

気をつけないといけないのは、大人になって

テレビをぼーっと見ていても、あるいは

テレビをみて「勉強になった」の気持ちを

持つだけで、具体的な行動をしないでいても、

誰もその生活には苦言を呈してくれないのだ。

 

私は今、東京のとある企業主催プロジェクトの

参加メンバーの一員になった。それは参加費を

払わせてもらう代わりに、とある音声業界の

とあるコンテンツづくり・開発の挑戦における

担い手になるチャンスをもたらすものだ。

 

そこに参加したたくさんの仲間もいる。

これだけ考えると、とても「楽しい」のだ。

 

中には有益な情報と利他の心を持っている

"つわもの"もいるように思う。尊敬できる人との

出会いはお金には変えられないので、とてもその

出会いの一つひとつを、日々嬉しく思う。

 

ところが憂いていることもある。「楽しかった」

という感想だけで、終わりたくはないのだ。

 

しかし「みんなで楽しくやる」ことなしに、

チームで製作工程やその成果を存分に味わえる

ことはない。作るものが形あるものならば、

数値、図面、物理などである程度"デザイン"に

落とし込み、正誤を議論しやすいところだが、

形のない、人が耳で聴くコンテンツを、さらには

実際に会って顔を合わせることのない仲間と

それを生み出そうとしているのだ。

 

私の今の仕事は、機械や部品、技術者たちと、

対面で向き合って製品の質を上げることであり、

"Slackで参考になりそうな事例のURLを送り合う"

ようなものでは、決してない。

そんなことは苦手で、職人の道を選んだ。

 

しかし今やろうとしているのはまさに

伝わるか伝わらないか手探りで探し求める

"言語ゲーム"であり、"面白いことをやる"

という私が職能的に苦手とする分野なのである。

(私は、仕事や成果が面白いかどうかより

目に見えて実用的な機械を作る道を選んだ。)

 

それでもほとんど本能的にこれは今挑戦すべき

テーマだと直感が働いた。おそらく間違いはない。

 

5年もすれば、インターネットを介した音声が

生活の中でもっと活躍の場を広げていると

信じている。そうなるとより生活は愉快でかつ

便利で、人の持つ温もりも感じやすいのだ。

 

私がものづくりの現場で働き続けたい理由は

単純だ。誰かの役に立つ、世の中で長く使われる

機械を自分の手で作り出すということに

魅了されてしまっているからだ。辞められない。

 

それに置き換えると、「音声コンテンツ」には

大いに可能性や恩を感じているし、そこに

自分の力を預けたい。その業界が人手を、知恵を

必要とするのであれば、自分で持ち合わせる力は

どうか繁栄のために使って頂きたい。

 

そんなことで挑戦は続く。

楽しかったです。で終わってしまうかどうか

3ヶ月後のプロジェクト終了の時の自分に、

今こうして釘を打っておきたい。

 

必ず前進しろ、そして受けた恩を返せ、と。

0321_車と家探しに費やす時間

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家や車を買うのには多くの時間を要する。

 

車を買うのに、即決できる人がいるとすれば

その人は普段から車をよく見る仕事か、

よほど買う車の仕様を絞ってきた人か、

よほどの研ぎ澄まされた直感がある人か。

それでも購入を決めるまでには細かい確認を

して、決済をして、という時間を必要とする。

 

私は過去に一度しか車を買ったことがない。

必要に迫られた状態かつ低予算だったので

予算重視で時間をかけて中古車探しに没頭した。

 

4人乗れて、高速道路を快調に走れればよく、

購入全体の予算は総額で50万円だった。

共働きで子どもが生まれる前だったために

生活に余裕はあったが、購入前に、月々に払う

だろうランニングコスト(ガソリンETC点検保険)を

綿密に算出して備えるなど準備を楽しんだ。

 

結果、納得のいく車を買えたのが2014年で

2019年の夏まで約5年間、買った当時から

1300ccの10年落ちという決して"良い車"では

なかったが、結果は"良い買い物"だった。

 

年間10万円払ったと考えると、子育てが

始まってからの生活はかなりその車に助けられ、

子どもの発育を助けるため、妻が便利に暮らすため

また旅行や通勤もでき、本当に買って良かった。

 

そんな私はちょうど駐在が決まる頃、

車の買い替えを考えていたのだった。

子どもが増えると、やはり車も大きく、

子どもが育つと、やはり家も大きくしたくなる。

 

結果、車の買い替えは先送りになり、

そして乗り続けた車は手放すことになった。

 

"どんな車も1万円で買います"の看板を見て

地元のスクラップ屋のような廃車が並ぶ、

中古車屋に車を買い取ってもらい、私の

車選びには一旦区切りがついた。

 

家は車の10倍の値段・サイズと考えたら、

家を買うのはもっと、慎重になるだろうと思う。

家を買うのに慣れている人を本当に尊敬する。

 

私はマレーシアに住み、そして生活では

会社から車を一台貸して頂いているので、

車選びも家選びにも、時間を使う必要がない。

 

ところが何の気なく、「もし自分が日本にいたら

どれくらい車探しに時間を費やしただろう」

という疑問を持ち、その日の気が済むまで、

中古車選びをスマホでしてみたのである。

 

結果、飽きた。もういいまた今度、となるまで

約10分間をその検索に充てたことが分かった。

 

私は自分の生活は暇がないと思って生きている。

しかし、その日のその10分は、おそらく

もし私が日本に住んでいれば、何回も繰り返し

消費されていた無駄な10分だったことと思われる。

 

それが車から、服になり、本になり、

悩み事の解決になり…私はインターネットで

週何十時間という、生産の源泉を捨てている。

生産の源泉、そう。かけがえのない時間だ。

 

しかし、インターネットにせよテレビにせよ

広告そのものがなくならない理由としては、

"購買意欲を掻き立てられる"経験は、多くの

人にとって喜ばしいことであるからだと思う。

そうすることでうまく回る経済がきっとある。

 

私の場合、車探しにうっかり時間を捨てることを

辞めれたことを喜ぶ一方で、バイクが欲しい、

自転車が欲しいとインターネット検索そのものが

終わることはないのだ。購買意欲はどんなに

欲を削いでも体が疲れても、残ってしまう。

 

なので無駄時間ゼロが正義ということでなく

"15分も捨てたのはもったいない。次は5分で

行動につなげられない調べごとは辞めよう"

という風に時計を見て制限をかけようと思う。

 

10分あれば子どもに絵本を何冊か読める。

その方がもっと未来に得られる果実がある。

 

どうしても寝られない、やることが無い、

調べたいことはある、という悪の三銃士が

夜中の頭に訪れるようなことがあったとしたら

インターネット通信を切る。そうにしよう。

そんな時のために瞑想を学んでおくと良い。

 

朝が来ればどんな心配事も調べ方も、

(それがお金をもらったり人に頼まれたりした

ものでない限り)自分を助けることは少ない。

 

きっとまたいつも通りの朝が来て夜が来る。

空から爆弾が飛んできて、住んでいる島が

吹き飛ばなかったことを日々単純に喜ぼう。

 

人が長期に渡って夢を見て、翻弄され

消費意欲を持ち疲弊する車探しと家探し。

 

喫煙や賭け事と同じくらい、その捨てる

時間は惜しいものだ、と私は自分を戒めたい。

 

他人がそれらに夢見て時間を費やすことには

社会的な距離を保つのがいいだろうが、

みんなが捨てている時間があって、自分は

それを捨てずに何かに没頭できれば、それは

人を助ける"個性"に進展していくだろう。

 

私の場合にそれは、このブログを書くことや

既に発信者として頑張っている仲間にエールを

贈ったり、ただ言葉もなく見守ることである。