0079_もてなすことについて
私はもてなすのが好きだと断言できる。
もてなすのが得意だ。神対応、と思われたい。
有名なTVドラマ、フレンズでいうモニカだ。
彼女のような潔癖さはないが、来るお客に対し
あれこれ世話を焼きたがるのはもはや短所に
近いほど。気をきかせすぎる一面がある。
無論、有意義な時間を持てる相手に対してだ。
そのほとんどが食事や観光の段取りであるが、
関係者の立場や希望を理論立てて組立て
ベストな時間や場所を決め、適度に余裕を
持たせ、ただの予定調和にならないよう
要所の徹底的な段取りと遊びをちりばめる。
これは自由な旅人の極意だと思っている。
ちなみに、他人の行動や自分の試行錯誤は
自分の行動指針を決めるうえで重要だが、
やはりなんと言ってもプロの著書からの学びは
具体性があり、好きな文を読むことで腹落ち
でき、私の弱い部分は読書から得る気づきや
学びで補強されているその一冊を紹介する。
著者:田崎真也
著書名:「接待の一流 おもてなしは技術です」
出版社:光文社
この中で今まで自分の中でもやもやしていた
ところがすっきり解消した理解があった。
それは、ホストがもてなすという考えである。
誰かが誰かをもてなす。自分がもてなされる側
なのか、もてなす側なのか。この相関を理解
していない日本人が多いということらしい。
私が先日感じた妙な気分の中で、この種の
考えがきっかけになったことを今回記録する。
そう、嫁姑問題である。私にとっては、
私の妻と私の母の人間関係に問題があれば、
それは嫁姑問題として分類することができる。
実際のところ、幸いにも嫁姑問題は全く無い。
しかし私が感じた妙な気分とは、以下のような
エピソードを通じてであった。
私の妻と子が帰省先から帰る日、
私の母が妻や孫に会いたいと言ったので
私が間に入って会食の予定を立てたのである。
どこで何を食べるのが良いか。
気遣いをする要素としては、
・子どもが二人いても会食がしやすい環境。
・できるかぎり安価で美味しい食事
・さっと帰宅できる良い立地
というところでおおよその目星はついていた。
ところが、母が、前日になって突然
急用ができたから行けるか分からないと
言い出したのである。どうやら大事な所持品
を紛失したものが警察に届き、取りに行く
用事だと言うのだ。そうなって再考したのが
私で、妻の都合を考えて、出来れば家で
食事した方が帰省から戻った日は楽だろう
と判断し、私が丼物か何か家族分自炊して
母はもし来れたらそれを食べてもらおうと
妻に提案した。私がホストなのだから、
私が帰ってきた家族と来れるかわからない母を
もてなす意識でそれがいいだろうと判断した
からである。しかし。意外にも妻は反対した。
家にもし来てもらえるならきちんとした
食事でもてなさなければダメだ、と。
私は妻とも母とも違う星の出身であると
認識しているので、自分の主張を強引に通すの
は、彼女らの困惑を招くことを知っている。
なので予定通り都合の良い料理屋を予約し、
母には来られるならそこに来て欲しいと連絡。
結果的にはそこで無事に会食できた。
誰がホストかという見方をすれば、
私が帰ってくる妻と孫に会いたい母を
もてなすために家に呼ぶというのは筋が通る。
しかし、嫁姑という別のフィルターが勝るのが
日本的なものの見方なのだろうと学んだ。
家=自分の仕事場という感覚が妻にはあり
自分が不在にしていた家に人を招くのは
自分のプライドが許さなかったのだろう。
私の母を呼ぶなら尚のこと。といった様子。
家庭内パワーバランスでいうと、私は今回
妻の意見を尊重した(従った)ので、負けた
ということになるが、この日本式嫁姑感覚は
おそらく私が好む気質の人間はおおよそ
持ち合わせているだろう。格上の方を慮る
というのだろうか。大切な意識である。
しかしながら気を遣うということは、それだけ
目に見えない間合いを取る、ということだ。
その間合いを絶対的にしてしまうと、それ以後
よほどのことがない限り心理的な距離は
近づくことがないだろう。親族や上司部下など
間合いの取り方は人それぞれであるが、
傷つけあったりすることのない普通の間柄なら
少しの隙を与えて関係を深める勇気も必要だ。
ともあれ、もてなすことは技術である。
生まれつきのセンスではない。練習や考え方で
向上していくものである。もてなされて気持ち
の良い思いをしたいので、自分がまず
誰に対してももてなす気概を持ちたい。