ガツンとゆるい所感

機械工であり、二児の父であり、世界20カ国で遊んだり仕事した旅人がお送りする、仕事や生活での気づきや学び。毎朝7:30に更新していき、1000件を目標に記述を残します。

0219_マレーシアの配慮あふれる対応

昨日の投稿でマレーシアの伝統衣装の

腰巻を身にまとい、悠々とショッピングモールに

出かけたことを記録したが、その中で

体験した出来事からこの国の宗教に関する

リテラシーと配慮ある行動について記録する。

 

マレーシア国籍のローカル人は、

ほとんどがクアラルンプールには住んでおらず

さまざまなローカルシティに住んでいる。

 

クアラルンプールは観光地で、とくに

多国籍であることから空港と同じくらい、

様々な人種の外国人とマレーシア人がいる。

 

他方で、他方へ出向くと、マレーシア国籍の人

以外にとくに会うことはないという種の人も多い。

これは日本においても同じで、東京や大阪などの

都市部での外国人に対する認知、体制と

徳島や岐阜でのそれでは異なるのと同じだ。

 

しかし、日本と違うのは、地方でもわざわざ

"ガイジン"扱いを受けることはない。

様々な人種がいるのは地方都市であっても同じだ。

 

なので、私が地方に行くと中華系マレーシア人に

間違えられることがほとんどだ。異論はない。

 

しかし、話を伝統衣装の腰巻に戻して、

どうみても中華系(非イスラム教徒)の私が、

イスラム伝統衣装を着て街を歩くと、

これはみる人が見るとイスラム教徒なのかと

錯覚してしまうらしい。その認知はあくまで

肌の色や言語ではなく、何を信仰しているか

という内面的なところで人種を見るようだ。

 

その例ともいえる事象は、私が腰巻を履いて

お洒落な洋風のカフェに出向いた時に起こった。

 

私はメニューを見て、インド系?スリランカ人?

風のあくまで中華系でもマレー系でもない

スタッフに、ハワイアンバーガーを注文した。

 

そうすると彼は、分かりました、の返事とともに

バーガーのベーコンは豚ですが?と私に

優しく断りを入れてくれたのである。

 

これには一瞬思考が止まってしまったが、

住んで4ヶ月も経てばさすがに有難い配慮

であることに気がついた。私が身にまとっている

スカートのようなKain pelikatは、

基本的にイスラム教徒が身に付けるものなので

私の見た目や言葉尻からこいつはイスラム教徒

ではない、と断定するのではなく、念のため

イスラム教徒ではない(豚を提供して良い)ですね?

という確認をして頂けたということだ。

 

何とも、気分の良い配慮であった。

あるいは「こいつは豚食える種のムスリムか?」

と思われたのかもしれないが、考えにくい。

 

その話を、日本人ムスリムの女性に話したところ

彼女も同じような経験があると言っていた。

それは、パン屋で好きなパンを買って清算

さぁ明日の朝ごはんが楽しみだと思った瞬間、

パン屋の奥の厨房から中華系のマスターが

大急ぎで出てきたかと思うと、

「マダム申し訳ない、このレーズンは

  調理工程の中で酒を使っているものなのです」

清算済みの袋の中からわざわざレーズンパンを

マイナス処理して下さったそうだ。

楽しみにしていた好物のレーズンパンが

食べられなくてショックだったらしいが。

 

信仰は信仰者がその神秘を知っているもので、

他の宗教の方がわざわざ気にかける義理はない。

 

しかし、マレーシアの多民族国家の様は

「共生」の言葉がとてもよく似合う。

お互い、義務感だけではなく、"一緒に暮らす

家族だからその事情は知っている"というような

暖かさを私は時折感じるのだ。

 

顕著なのは国の祝日にもお互いの共生観が

表れている。インドの祝日、旧正月、ハリラヤ、

クリスマスはどれも全員が休む祝日だ。

 

アメリカも多民族国家だが、多文化に対応した

国民の祝日があるかといえば、学校教育や

特定の大組織だけであろう。

 

日本も祝日そのものは多いが、意外にも

クリスマスですら国が制定する祝日ではない。

 

そんな他民族を尊重する優しさを感じる国、

マレーシア。メルボルンやニューヨークなど

人種のるつぼだと認識されている都市は他にも

あるが、ただ混ざり合うのと共生するのは違う。

 

これからもこの国の良いところを吸収して

自国・日本の国際力向上に還元していきたい。