ガツンとゆるい所感

機械工であり、二児の父であり、世界20カ国で遊んだり仕事した旅人がお送りする、仕事や生活での気づきや学び。毎朝7:30に更新していき、1000件を目標に記述を残します。

0189_箸の持ち方と仕事・子育て論

イケハヤラジオを拝聴していて、

面白い講談があったので紹介したい。

 

VOICY イケハヤラジオ 2019年6月17日放送

「箸の持ち方炎上事件に思うこと。」

 

話の要約は、幼児教育か小学校の先生が、

生徒に向かって言ったことが下記の内容で

ネット上で保守派と革新派で対立炎上した、と。

 

内容:

箸の持ち方が正しくできませんと

お嫁にいせませんわよ、という指導

 

保守派はその通りだ!

革新派はうるせえよ!といった様子?なのか

 

毎回わざわざ断わって中庸と申し上げる

私にとってはどっちもどっちだなと感じる反面

 

もし本当にリベラルな考え方があるならば、

箸の持ち方を指摘されたことに噛み付くのでは

なくて、そんな尖った教育に感銘を受ける

こともできるんじゃないか、と私は考える。

 

これも十分に国際競争力のあるコンテンツだ。

箸の持ち方が美しく、玉の輿に乗った美しい

女性を探してみたり、または箸の持ち方は

際立った美しさはないが身なりや日本語は

美しくしつけている様子を披露したり、と

保守派が大切にしたい、日本古来の美しさを

訴求する術は箸以外にもいくらでもある。

 

指導した先生はさぞかし箸の持ち方について

造詣が深いのであろうが、歴史に精通しているか

また着物は自分で着付けられるか、

履物は誰もみていなくても揃えているか。

私が指摘された親ならその先生がいかに

日本的な佇まいのある方か、研究するだろう。

 

それはさておき、イケハヤさんが面白いと

感じて強調された保守派の意見の一つに、

箸の持ち方を教えないのは虐待だ!という

ものがあったという。これはたしかに面白い。

何回聞いても、妙な考察で、笑ってしまう。

 

虐待って簡単に言いなさんなと感じる一方、

本質的な虐待は何なんだろうか、と内省した。

 

私は革新にも保守にもなれると信じるので

革新的視点で捉えると、箸の持ち方を教えない

のは虐待じゃない。保守的に捉えると虐待。

 

虐待の要点は、社会で通用できない人格に

恣意的に育て上げることではないか。

と考察する。あくまでこれも主観だが、

社会で通用するかどうかなんて本人の努力だよ

というのが革新派の見解で、三つ子の魂百まで

というのが保守派の見解なのだとしたら、

私はどちらかというと保守派の色合いが強い。

 

学校の先生に文句は言わないだろうし

そんなことをツイッターを通じて披露しても

その子どもの教育になるものではない。

 

だが私が保守派に転じたのは内省した結果、

ものづくりに起因するという気づきに至った。

 

箸の持ち方はさすがに上司や先輩にとやかく

言われる筋合いはないが、厳しく美しい

日本のものづくりの現場では、工具の持ち方や

道具を美しく使う姿勢などが重要視される。

それがあって初めて日本のものづくりは完結

するのだ。昔から続いてきたことなので、

効用はないとしても机はまっすぐ配置したいし

床に落ちたゴミは誰に言われることもなく

さっと拾ってゴミ箱に捨てたい。

 

字が汚くてもヒゲが生えていてもいいのだ、

ただものを正しく使って、現場を美しく

保ちたい。それは仕事のやりがいに直結する。

 

おそらく一流の匠たちは、歯並びは悪くても

箸は正しく持とうとすると私は考える。

私も自分の世界観に独特の美を保ちたいので

箸の持ち方や食事の仕方、姿勢には気を配る。

 

そんなのしなくてもいいんだよ馬鹿野郎、

と言われてもそんなことはどうでもいいのだ。

自分の中にある珠を磨くのに人の手は借りないし

野次などあってもなくてもどうでもいいのだ。

 

箸の持ち方で見える世界がある、ということは

私のコンテンツにもできそうだ。

 

箸を使うタイ人や、手で食べるイスラム教徒

などと、日本人たまに箸の持ち方うるさいんやけど

おたくはどうです?という会話を楽しみたい。

 

無論、各国の一流エンジニアと、である。

 

0188_相互性に気を配る大切さ

私の趣味は"反面教師"なのかもしれない。

一番良さげに言って反面教師で、悪く言えば

人の粗探しをするのが癖。それが私である。

無論おおっぴらにすることではないのだが

妙なことにこそ価値があると信じ、記録する。

 

今回取り上げたいのは、会話の中に保たれる

相互性について。お互いを思いやる気持ちと

自分の引き出しから言葉をどう出すか、だ。

 

会話がスムーズにいかない人を日本よりも

マレーシアの方が多くみる気がする。

先般拝読した「愛するということ」という

エーリッヒフロム著の言葉を借りれば

愛するということは技術で、訓練が可能だ。

 

愛がない、相互性がない。多様性なのかも

しれないが、私から見ると訓練不足な人種、

いわば「人と共存しづらい人種」である。

長いので便宜上、以下"難共人"として扱う。

 

難共人の方々の典型的な会話の思考回路は、

相互性への配慮の欠如である。

 

私が好む会話のやり取りは、主観だが

① 相手の情報を耳から仕入れる

② 相手を思いやる

③ 自分の頭の中の引出しから言葉を探す

④ 選んだ言葉が適切か言う前に確認する

⑤ 相手に言葉に出して伝える

という思考プロセスがある。

 

ありがとう、

いいえどういたしまして。

 

その簡単なやり取りでも①〜⑤のプロセスを

経ている。これはあくまで私の思考回路だ。

私と波長が合うと感じる人なら同じ思考だろう。

 

ところが、難共人たちはこのプロセスの中で

②と④をスキップしてしまう傾向がある。

単純にいうと思いやりと言葉選びについて

慎重にしなければならない感覚が抜けるのだ。

 

典型的な例として先日あった例。

 

外出を共にした(年上の)ローカルスタッフに

13:30になってもまだ昼食を取っていなかったため

腹が減りました、と私が伝えたところ、

ほぼ即答でこう言ったのである。

 

「俺は大丈夫だ、ところで知ってるか?

  腹が減ったまましばらく過ごした方が

  健康にいいんだぞ」と。(英語で)

 

こっちは健康的でいたいが腹は減ったのだ。

 

まぁいいかと思ったところ何が食べたいかと

尋ねられたので、早く仕事に戻りたいので

マックのドライブスルーがいいと伝えたところ

マックは体に良くないからやめておけ、と。

相手は60歳過ぎなのでこれは仕方がない。

むしろ相手に配慮がなかったと反省した。

 

では、何でもおまかせしますと言い

しばらく道を走ると高速道路のサービスエリアに

入るよう指示され、到着した。そこには

いくつかの店があり、ここが名店だからと

おススメして下さったところで昼食を摂る。

 

空腹は満たされたのだが何の名店だったのか

気になって、よく来るのかと尋ねたところ

10年前に来たことがあるかないか、だと。

 

こうなると私のモヤモヤのトルクガードは

飛び、空転している。もはやなんでやねんという

想いすら持つことがない。

 

最後に腹が減ったままで過ごして健康でいるのは

試したことがあるの?と尋ねたところ

何の話だ?おれはニュースを見ただけだ、と。

 

この方はズレているが、悪意はない。

別に私を何か悪いことに陥れようという

気はないのだ。私の行動や言動を見て、

自分の引出しからわざわざ言葉を出してくれる。

 

先述の②と④に比重が置かれるのが日本的で

ややもすると"慇懃な沈黙が金"という、

海外では少し失礼な態度になることもある。

 

明確な線引きや答えがあるわけではないが、

これは英語ができるからといって会話が誰と

でも出来るわけではないという典型的な原因だ。

 

やはり相手を思いやる気持ちとその行動が

発する言葉にも増して相手の胸を打つ。

そして言動よりも態度で示す方が難しい。

やはり愛は何たるかということを学ばなければ

とっさの行動や言動でヘマをするのである。

 

私は自信がないのでとにかくたくさんの

本を読むことで引出しの中に美しい言葉を

ためている。これはきっと良い習慣だ。

 

そして人と話すときは、なるべく

相手の言葉を最後まで聞いて、聞きながら

②と③の作業をせわしなくした上で、

最後まで聞くや否や④、矢継ぎ早に⑤!

ということで相互性を保つようにしている。

 

それをやった上でズレる相手は気にしない。

リズム感が合う!嬉しい!という人とだけ

とことん世界観を深めていくのが楽しいのだ。

 

このブログは拙い文章だが、

スピード感と情緒にかけるところがあるので

音声メディアとしてもいつか発信してみたい。

 

そして出来る限りの厳しくも

日本的なフィードバックを頂いて、

自分の日本人としての誇りを保ちたい。

0187_焦れという指示はない

「焦らずに自分のペースでいいよ。

   じっくりやっていきましょう。」

 

という言葉を、マレーシアに赴任した直後に

現地の副社長(日本人)から頂いたのが

2ヶ月半経って今も心に残っている。

 

私がマレーシア工場に赴任したことは、

(赴任以前に累計4ヶ月出張で来ていたため)

会社から見ては妥当で、私から見ても望んだ

人事だったので、赴任直後も全く不自由なく

勝手知ったる職場と仲のいい仲間たちとともに

何の苦労もなく渡航翌日から仕事は始まった。

 

その仕事の開始日に、無事に渡航ができ

スムーズに仕事が始まったことを副社長に

メールで連絡させて頂いたのである。

 

その返信で簡素だが頂いた言葉が

冒頭の言葉であった。私には数年の任期があるが

限られたものでなく、また短ければ半年

または1年というものでもないため、

2年は少なくともこちらで活躍できるだろうと

見込んでいる。たしかに、焦ってもダメだ。

 

しかしながら私がこの言葉にここまで

印象付けられたのは、私が逆の立場ならつい

「三年で得られる成果を君なら半年でできる」

というような"焦らせる"会話の技法を

よく使ってしまう傾向にあるからだ。

 

技術者の後輩たちと話をする中で、詰問とまで

言わないが明らかな理詰めをしてしまった時の

苦笑いの表情が何人も記憶の中にある。

 

私は何も相手を責め立てたいのではない。

しかし、納期遅延で入らなかった部品の遅れを

月曜日に聞いた時に「多分今週中に入る」

という回答は耳にゴミが入ったように血が上り

相手が言葉を締めくくる前に「今週のいつ?」

と冷淡に確認をしてしまうのだ。

 

逆に、時間的なことを相手から尋ねられることに

いつも気が利くので、簡単な仕事なら

何時までにできるか聞かれるまでもなくその場で

何時に終わるからその次は何をしましょうと

尋ねることができるのだ。これを日常的に

行うことで上司に重宝がられるし、

自分が都合であけてほしい時間や休暇も

訴求しやすい。自分の時間読みは相手の時間読み

を助けることもできるのである。

 

だが、本題はそこではない。

焦らずやろうという言葉をかけられるか、だ。

 

副社長は私の業務の出来不出来を監視して

いるのではなく、私が一定期間かけて出した

成果と現地子会社の成果を照らし合わせて評価

したいのだろうと気づくことができる。

 

日本的な長期的なものの見方であり、

ゆっくりしてるなぁと思う反面、仕事の速さより

成果の凄さがないと、自分の任期を通して

何をしたかということを語れないのだ。

 

三年間、与えられた仕事を早く正確に

出来ました。と言うならまだ代わりはいる。

 

三年間で前はこうだったことが好転し続けて

今はこんなことになってます。これは最高です。

 

そんなことを数年後に数字で語るには、

最初の数ヶ月の付け焼き刃の頑張りは

取るに足らないものになるだろう。

 

もちろん毎日コツコツ仕事を早く丁寧にこなす

気概も努力も必要だが、そこからTier2,3,4と

段階を上がっていかなければならない。

 

焦らず、休まず。大きな成果を目指して

気づきをベースに、お客や仲間を喜ばせられる

仕事ぶりを見てもらえるように研鑽し続けたい。

0186_不確実性の回避度合い②

不確実性の回避度合いが低いマレーシアと

高い日本のそれぞれの心地よさについて記録。

 

先日、髪を切るために美容院をネットで予約し

14:30の予約のために、Waze(Naviアプリ)で

40分かかるという情報を受け、確かに前回

行った時は40分で行けた記憶があったため、

1時間前の13:30に自宅を出発した。

 

マレーシアだからとはいえ、髪を切ってもらう

スタッフの方は日本人だったため、時間に

遅れないようにしようと気をつけていた。

 

ところが途中大きな事故渋滞にハマってしまい、

14:00の時点で到着時間が14:35になっていた。

まぁいいやろう、ちょっとくらい。

という後のことに配慮しないタイプの人間

だと来たる幸福も逃げそうだと思ったので、

お店に遅れますという連絡を入れたのである。

 

マレーシアの人や文化には随分なれたのだが

頭の中にはまだ日本で過去に経験した含蓄が

根強く残っており、電話連絡をしながらも

頭の中で「どんな風に言われるだろう」という

心配が少し浮かんできていたのである。

 

そう、日本ならごくたまに、

「約束時間の15分を過ぎた予約は申し訳

ございませんが、無効にさせていただきます

こちらはWEB申込時の際にも掲示されており

ますので、恐れ入りますがご理解願います」

というもはや磨くところのない玉のような

角のない正式な突っぱねをくらうことがある。

 

私がインターネット予約や知らない店への約束

を忌み嫌うのはこのような杓子定規な対応に

(自分に非があると悟りながらも)非常に残念な

気持ちになる経験が過去に何度かあるからだ。

 

日航空券取得を失敗して1800RM損したが

それはまた別の機会で憤懣をぶちまけよう。

 

さて、話は戻って電話に出てくれた若い兄ちゃんに

「14:30の私です、渋滞にハマって遅れます」

とシンプルに伝えたところ、回答は「OK」の即答。「どれくらい遅れるんか貴様は」

と詰められるかなと想定していたが、

「OK」だけの回答のまま3秒くらいの間があり

続く彼の言葉は私にとって衝撃だった。

 

「オー、もしかして遅れるってことを

知らせてくれたの?とてもありがとう。

無事に来てよね、気をつけて」だった。

 

即座に、無心に、親切な言葉。日本人なら

よほど時間的縛りのないイベントか、

親戚くらいでしか言えないだろうと感じた。

 

これに気を良くした私はその後の渋滞や

それを抜けて慣れない都会の立体高速道路を

間違うことなく順調に進み、14:40に到着した。

 

遅れてごめんなさいと一言お伝えをしようか

と思いながら美容室のドアを開けたところ、

受付をするカウンターに腰掛けたローカル

スタッフが、髪を切るためのハサミを使って

着ているセーターの毛羽立ちを切っている

ところだった。もはや遅れてごめんと言う

動議がなくなったので、そのまま予約の者です

と言って何もなかったかのように髪を切った。

 

不確実性回避の話をするにはもっと

中身のある仕事や航空便を使っての移動など

様々なシーンがあるが、言えるのは不確実性を

忌み嫌い、排除することは効率化の燃料になる

一方、優しく受け入れる気持ちやあるがままに

対応してみようというリラックスした時間を

犠牲にしているのかもしれない。

 

先述の「約束時間の15分を過ぎた予約は

申し訳ございませんが…」の対応も、それを

口にする人が開発した価値観ではなく、あくまで

日本人特有の病的な効率化の渦の中で競争し

感情を殺して効率を優先する社会の産物

として生まれた対応なのかもしれない。

 

何にしても効率が求められるからこそ

富は産まれるし、そこに難しさがあるからこそ

プロフェッショナルが育ち活躍できると

私は思っている。日本人ももっとゆるく

やりましょうや、なんて事は言いたくないのだ。

 

しかし、不確実性の回避そのものが美ではない。

集団で最高の成果を生み出すためにある

便利な道具だと位置付けて、不確実でも

良いと思えるところに寛容であるべきだ。

 

心の何処かで不確実性をあまりに嫌い、

あるがままを受け入れる心が萎んでいるならば

それは何か(海外で暮らすなどで)リハビリして

人間らしい感覚を取り戻していけばよい。

 

マレーシア人の無心の優しさには本当に

驚かされることが多く見習いたい。

 

私がマレーシアに来たのはある種の天命

なのかもしれないと感じた。良い考えは

どんどん自分の行動に取り入れていこう。

0185_不確実性の回避度合い①

「経営戦略としての異文化対応力」

という書籍をマレーシア赴任前に購入し

赴任した月の4月は穴が空くほど拝読した。

 

ストーリー仕立てになった具体例や

文化的経済的背景の解説のあるコラム、

また洋書の和訳ではなく非常に日本語として

読みやすく、海外での活躍が期待される者に

とって必読の名著と私は位置付けている。

2019年3月に出たばかりで今なら書店でも

購入できるかも知れないが、厳しい出版業会の

事情を私は知らないのでとにかく読もうと

思った瞬間に購入して側に置いておくだけでも

世界への扉が用意された気になれるだろう。

 

さて、要約や解説は割愛させていただき

マレーシアという国で日本と極端に違うと

感じることが、不確実性の回避度合いである。

 

海外の人は計画性がないとか、段取りが悪い、

規則やルールのしばりがゆるいなどは、

マレーシアに限ったことではなく、むしろ

日本がどうかしているのである。

 

紹介した著者には六次元の視点で各国の

指数がランキングされており、その六次元の

一つが"不確実性の回避度合い"である。

この指数のランキングにて日本は1位、

つまり最も不確実性の回避度合いが高い国

として位置づけられている。位置付けた張本人は

この本の著者でなく、ホフステードさんという

オランダ人だ。詳しくは読んでご理解頂きたい。

 

回りくどい表現になったので、私なりに

わかりやすく解釈をするとこうである。

 

あらゆる行動の中で頭の中にあるもの、

日本:あかんかったらあかんから事前に手を打とう

マレーシア:よかったらいいからとりあえずやろう

 

こんなところである。

実際、ものづくりの世界ではあかんかったら

あかんという発想はとても大切だ。例えば

1枚数100万円する制御基盤があり、

その入電の15ボルトを確認せずに

謝って100ボルトが入ればバチンと音がして

基盤(つまり100万円)は無価値になる。

 

なので、入電前に電圧が正しくきているか

確認をするのが流儀である。ところがこの時

"もし電圧が正しくなかったら壊れるから"と

考えるのか"電圧が正しかったら壊れないから"

と考えるのかで結果として全く異なる場合がある。

 

これはさすがに日本人以外でも、プロで

あるなら誰しも気にかけることだ。

100万円の基盤の取扱は日常にあまりないので

100万円の自分のお金の入金に当てはめてもいい。

 

100円振込むのと100万円振込むのとでは

何か間違うと大変なことになるという

心の負荷は確実に違ってくるだろう。

日本人が仮に1円でも間違いたくない

心理が働くとしたら、それは国民性である。

 

不確実性。英語でUncertaintyというが、

マレーシアで生活や仕事をしていると、

不確実性を気にしないのでその単語を耳に

することは少なく、代わりにMaybeが

信じられないくらい多く用いられる。

関西弁を使う人が周りにたくさんいることで

標準語の人の調子が狂うのとおなじで、

マレーシア人の中に日本人がいると、

Maybeの多用が感染してしまうこともある。

 

不確実性をどう受け入れるかは国籍に

関係がなく、個性や経験値によって異なるが

なければこしたことないものだと私は考えている。

 

前置きが長くなったが

私が日常生活でそれを感じるいくつかの

シーンを、次に紹介し、所感を残したい。

0184_人の繋がりの進化、深化

何でもこだわりを持つことや自分で選んだ

責任を楽しむこと、自分の選択を尊び、

それが自分や周りを豊かにすると信じること。

 

仕事・生活・人付き合いなど何にでも

応用できる考え方である。とにかく端的に

言うならば、「自分で選んだ道を進む」ことだ。

 

それが仮に毎日の歯磨きや、掃除やゴミ捨て

服選び、買い物。何にでも、自分の選択が

自分を構成して周りはそれを評価し、

人の繋がりの連鎖は保たれていく。

 

やはり内面が美しい人は外見にあらがなく、

内面に問題がある人は外見や行動でどうしても

綻びを露呈してしまうのだ。

 

さて、内面に美しい要素も大問題も併せ持つ

私が良いところだけを見てもらうのに

気を配っているのが、容姿と人付き合いだ。

 

私は、私が好きな人にとって魅力的であろう

という努力をして生きている。どうでもいい

と思える人にとってはどう映ろうと構わない。

 

服のセンスはまさにそうで、無難で簡素で

目立たないことが美だとするタイプの人よりも

自分が好きなテーマを服装に取り入れる感覚や

その服どこで買ったの?という地理的・歴史的

に珍しい装いをしている人に目がない。

体系や肌の色には関係ないことである。

 

サッカーが大好きだからサッカーのTシャツを

好んで着ている人が好きだし、自分の好きな色が

赤だと常にどこかに赤を入れて他でバランスを

とっている雰囲気の人は、見ていて飽きない。

 

それが最も色濃く出てくるのが、

髪の毛を切ることと、服を買うことである。

 

服を買うことについては古着屋で誰とも話さず

大量に試着して大量に買うということができ

また何よりインターネットで着ずに買うことも

できるので、服選びはプロを介さないことが

現実では多い。できるなら誰もがコーディネート

してもらって自信を持って服を着たいが、

そこまでしなくてもこだわりは具現化できる。

 

では散髪はどうか。それは自分で坊主にする

人以外であれば、プロに頼むことになるだろう。

 

日本の場合、理容師さんは国が認めるプロだ。

国家資格を持った者が髪の毛を切るのが常識

という国は世界で10カ国にも満たないらしい。

 

日本は最低2年の就学を経て資格を得た

プロ達が髪を切ってくれる、しかも価格や

手法は選び放題、こだわり放題の理容大国だ。

と私は勝手に日本に感謝しているが、

実際は今までの30数年間生きてきた中で

髪を切ることには全く頓着がなく、

こだわってきた実例がなかった。

強いて言うなら"軽くできたらいいから、

安く早く済ませたい"という、容姿へのこだわりと

相反する姿勢だった。

 

 

さて、人の繋がりの進化、深化というタイトルだが

私がマレーシア赴任後に腕のある日本人に

髪を切ってもらうことになれたのは

言うまでもなく人の繋がりの賜物である。

 

元々は、同じ中学に通った同郷の友達が2年前

マレーシアにおり、同時期に私がマレーシアへ

出張で来た際、日本人達で飲んでいるところに

顔を出させて頂き、その時に1人の美容師に

出会った。その美容師の方も同郷の友達もすでに

日本に帰国、帰任したが、その美容師さんが

務めていた美容院に行くことができているのだ。

 

家から20km以上離れたところにあるが、

日本人と話が出来て、日本人の繊細なハサミさばき

で髪を切ってもらうことができるのは

本当に嬉しく、自己肯定感が高まる。

従来の安く早く済ませる感覚より、

金額的に2倍、移動距離も2倍(以前は仕事

終わりの帰り道に済ますことが多かった)

要することになったが、拘りを楽しんでいる。

 

そんな美容師の方の言葉で印象的だったのは

私が山や海ばかり行って都会の洒落た酒場を

知る機会がない、と言ったことに対して

隠れ家的に使っているバーを紹介頂き、

「けど何でか知らんけど、オシャレな人は

  みんな繋がっていくんですよね」

とおっしゃったことだ。

 

髪を切ってくださるその方も非常に好感度が

高い方で魅力に溢れる一方、私に酒場を

教えて新しい扉を開けてくれているのだ。

 

渡りに船である。行けば酒も飲める。

人の繋がりに感謝すれば、自分の欲求は

どこまでも深めていける気がするのだ。

 

貫く努力は簡単ではないし、選択に失敗や

苦労はつきものだが、こだわり抜いた世界の

先に美しい感覚を持つ同胞達が待っている。

時間がかかっても、拘りたい欲求を持ち続ければ

いつか好転するのだと実感している。

 

無闇に繋がりを広めようとは言いたくないが

一対一での交友を深化させていくことは

必然的にその相手を軸として輪が広がるのだ。

 

髪を切ることが楽しみになれば、

毎日髪が伸びることですらありがたく感じる。

2ヶ月に一度なので、次は8月の予定だ。

 

次に会える時までにその酒場に行ってみよう。

そこでまた、拘りの時間を進化させたい。

0183_文章を読む力をつけよう

2019年6月13日のVOICYイケハヤラジオにて

「人間はテキストを読まなくなってきている」

という放送を読み、いたく共感・感心したので

その想いと自身の行動について記録する。

 

まず、感心したのはその着眼点である。

多くの進んだ考え方を持つ人と同様に、私も

音声コンテンツの将来性はかなり期待している。

 

先日ボーナスを頂けたのでワイヤレスイヤホンを

購入し、明らかに生活が変わった。

携帯電話を携帯しなくて良くなったのだ。

 

VOICYやiphoneの好きなラジオを拝聴しつつ

洗濯や洗い物、歯磨きなどができる。

私は現在家族を日本に残し単身赴任なので

ひとりのシーンとした時間にこうして

耳から善良な人の声を聞くことができるのは

大変ありがたい。刺激になるし、心が安らぐ。

 

中には今本当に知りたいことや感じたいことが

ラジオから偶然入ってくることもあり、

側から見ればただ黙って皿を洗う中年なのだが

頭の中は少年のようにワクワクし、近い未来の

楽しい行動につながったりもする。

 

さて、イケハヤさんのラジオの内容はそのまま

人間は文章を読まなくなってきているというもの。

ブログを書いたりYoutubeを撮ったり

また事業展開も先見性のあるものを次々と

関心を持って自分の生業に取り入れていらっしゃる

イケハヤさんがおっしゃるので、疑う余地はないし

自分がVOICYで情報を散文的に聴き始めてから

いつのまにか生活の一部となり楽しみとなり

有用な情報源となったことから、私も少なからず

文章離れが進んでいるのだろうと感じている。

 

だからこそブログを急に始めたのかもしれない。

 

情報収集にせよ遊びにせよ仕事にせよ、

何でも手軽に始められることは良いことだ。

しかしながら古くからあるやり方の踏襲なしに

現在の豊かさを真に知ることは難しい。

 

例えば昔はメガネが嗜好品のように扱われ、

高額で数奇なものだったが、現在はすぐに安く

手に入り、誰でも手軽に生活に取り入れられる。

 

一度豊かさを享受すると、大きなショックが

ない限り逆行しないのが文明で、文明など

考えもしなくても次から次に新しいモノや

情報が手に入るのが現代社会である。

 

私がこうして無駄かもしれないと思いながらも

思いの丈を文章に出力していることは時代錯誤

で、誰の目にも留まらないかも知れないが、

逆に言うとみんなが辞め始めたことを続けるのは

それだけ胆力が身につく活動にもなる。

 

また、読むと言う意味では、自分がブログで

徒然なるままに文字を起こすことで、他人の

文字表現から新たな気づきを得る機会が増えた。

 

知らない漢字の読み方を調べたり、

その日本語は正しいのか?と調べたり

自分が間違いたくないという意思がブログで

文章を作る前よりも強くなった実感がある。

 

子育てに関してはどうか。私には4歳の娘と

0歳の息子がいるが、彼らは間違いなく教育の

中で動画やソフトウェアを使うことが私の

義務教育期間よりも増えるだろう。その代わり

文章理解に関する教育の時間は私のほうが

多かった、ということになる未来を見込んでいる。

 

あまり教育については強い方針はないが、

美しい日本語と正しい日本人としての行いを

幼い頃に身につけてほしいという思いがある。

 

現在は娘が素読に挑戦中だ。小学生を対象とした

教材で、ふりがなをふってある漢字込みの

文章を音読する4歳児を見ていると、先のことは

読めないがこの子は賢明な生き方をするだろう

と妙な自信が湧いてくる。無論、始めたのが

1週間前ほどなので、続けることは最も大切だ。

 

文章を読む力。忙しい社会では寝る前や

仕事や家事の合間など、本来休むべき時間に

読む時間を持つ現代人の姿は殆ど忍耐力の

有無で読書量も変わってくるように感じる。

 

もちろんやりたくなければしない方がいいが

やりたくても易きに流れ、それに不満なら、

耐えて耐えて習慣になるまで耐え続けて、

好きな文章を読む時間を生活の中に残したい。

 

日本語は本当に美しい。

それが誰かにとって身に染みて理解頂けたなら

このブログの価値はそれ以上にはないのである。