ガツンとゆるい所感

機械工であり、二児の父であり、世界20カ国で遊んだり仕事した旅人がお送りする、仕事や生活での気づきや学び。毎朝7:30に更新していき、1000件を目標に記述を残します。

0306_英会話、LとRの発音の違い2

英会話、英語学習において、

LとRの発音の違いを学ぶ大切さ

(学ぶことが大切かどうか)の投げかけを

私の所感とする記録、前回の続き。

 

LとRの発音の違いについて、

オススメなのはVOICYのルシュカさんの解説だ。

声も好きだし着想や語り口も、品がある。

美しい音を聴きたい人なら、英語を勉強する

人以外でも聞いて欲しいと勧めるコンテンツだ。

 

私はここまででいくつかの情報源を用意した。

茂木健一郎さんのブログ「英語警察」

・SummerさんのYoutube「LとRの発音」

・ルシュカさんの「VOICY」での音声配信

 

※英語学習に関連する著者は一年に2冊ほど。

これが多いか少ないかは論じるまでもない。

 

私にとって、やりたいことを実現する

ために必要なことは情報より、情熱だ。

結論から言うとそれが学習の源泉となる。

 

情熱的に自分の中に湧き出る欲望や、

失敗するかもしれなくてもやりたい挑戦、

しんどいだろうけど家族を巻き込みたい旅、など

私はこれだと決めたことに力を使い果たしたい。

 

それらを語る、整理する上で、時には英語を

使っての表現や情報収集能力が求められる。

その中で必要なのは"分かりやすい辞書"であって

"これまで蓄え続けた英語の知識"ではない。

 

先述のLとRの発音の違いを実際に、現状の

自分の力を試してみて下さいと前回記録した。

 

私の結果は、playとpray、glassとgrass

longとwrongなど7個ほどある例の中で半分ほど

聞き分けられたのが正直な実力だ。

 

しかし半分を聞き分けられたことともう一つ

重要なことに気がついた。それはLとRの

文字の違いによる意味の違いだ。

 

例えばFLYとFRY。書き間違えることは

少ないと思うが、仮に間違えたとしよう。

I wanna fry back to japan as soon as possible.

(日本にできる限り早く帰りたいです)

flyを間違っても、多分全員に通じるだろう。

 

「この人は凡ミスをするタイプだ」と悟られる

のは英語力とまた別の論点なので省略するが。

 

fly back 飛んで帰る fry back 揚げ戻す?

言い間違いにせよ書き間違いにせよ、

これで大問題になるとしたら公文書や大切な

ビジネス場での書物などだけだろう。

 

同僚や上司の外国人とのやり取りで

LとRを逆にしても、大きな問題はない。

 

余談だがマレーシアにいると、笑いが

Wrongとlongの発音の違いよりも、

文法的な簡略化に気を取られすぎて

「発音どころの騒ぎではない」と感じる。

 

私が英語学習を考える、悩んでいる人に

一番言いたいのは、"楽しめるならとことんやれ"

ということだ。私は英語も日本語も好きで

映画は原則、家で見る。なぜなら気になった

単語を途中で止めて調べたらもう一度聞いたり

出来るからである。大半の時間はもちろん娯楽

だが、私にとって映画は大切な教材でもある。

 

逆に電気や機械や材料学、会計、経営など

"とことんやりたい訳ではないが必要なもの"

は、Youtubeなどで時間を使い学びつつ

"学んだ風"の時間を持つのが主流だ。

実際に仕事で役立つ学びもたまにはあるが。

 

学びたいなら楽しくて朝も夜もやりたい

明日もやりたいと思えるような題材である方が

何より健康にいい。どの世も健康が一番だ。

 

一つだけ注意をすることといえば、

日本語も英語も、競争にさらされた時

あまりにも競争相手が多いことに絶望することが

ある可能性は考えておくべきだ。

英語が好きという動機だけなら、人を魅了する

競争力に欠ける。競争力が弱いと豊かにならない。

 

TOEICだけを自分の英語学習の中心に据えていた

10年以上前の私には、あるジレンマがあった。

 

800点超えても、700点台の帰国子女の中学生に

勝てる気がしなかったことや、社労士も会計士も

持っていてTOEICの満点も欲しいと勉強する人に

出会ったことだ。TOEICは単なる電車の切符で

特急乗り放題は900点台、一日一駅しか進まない

のは500点台、とそんなものだと考えた。

日本国内で行きたいところに行くなら、

600から800ほどあれば不自由しないはずだ。

 

逆に500点台でも1日に1時間しか英語を

使わないなら全く問題がないはずだ。代わりに

他の8時間かそれ以上の動ける時間を使って、

誰もやらないようなことを英語で表現したり

誰もやらないような言語の基礎をやったりして

楽しむことの幅を持つ努力の方が有効だ。

 

人生を楽しめているかどうかを試すやり方は

映画を見るとか小説を読むとかで、

それらに触れる時間、自分が英語学習や

人生に希望を持てるかどうか内省することだ。

 

これまで2件の記事で、長くなったが、

私が書き残したい2020年4月現在での

英語学習における考えは以上だ。

 

今から時代が変わって、学習や苦労すら必要なく

英語を使いこなせるテクノロジーが出ても、

まだ自分が国際競争力を保っていられるよう、

他の言語や文化的活動に力を変容させたい。

0305_英会話、LとRの発音の違い①

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申し訳ないが、私にこれは語れない。

なぜなら、気にしていないからである。

 

今回は言い訳だらけの英会話に関しての所感。

 

TOEICは、目標の800点を超えた時点で辞めた。

(820点とった後ストレスなく楽しく勉強して、

 伸びなかったのでそこできりにした)

 

それ以上を目指すエネルギーよりも、英語と

掛け合わせて使いたい力、具体的に私の場合

勤務する会社の業界研究や、電気、機械など

メーカーで働く者としての基礎知識を得るのに

力の注ぎ方を変えたのである。

 

英語を長く勉強してきた私にとって

眼から鱗(ウロコ)であり、励みになった

記事が茂木健一郎さんから発表されている。

 

小うるさい英語警察は無視しよう、と。

https://lineblog.me/mogikenichiro/archives/8425103.html

 

前からそう感じていた、といえば嘘ではないが

英語警察(小煩く英語の正誤を問う人)の存在は

昔から気がついていたので、世界的に活躍する

方で、しかも学問を多岐に渡ってされ続けている

方が、「英語は使えればいい」という気持ちを

表現されるのがとてもカッコいいと感じた。

ましてやその気持ちを、日本人の英語力向上の

ために言葉にしておられるところが、

本当に美しい精神だと感じた。

 

さて、私はLとRの発音を気にしない

というテーマで記録をするのであるが、

少し前に記事にした、努力は試されてなんぼ

という記事も時間が許すなら読んで頂きたい。

 

ざっくり言えば、「努力したかどうかは

試された結果でのみ分かる」ということだ。

 

LとRの発音について、

知りたいと思うのは良いが、知るために

知識をつけようとする前に、分かっているのか

どうか、分かることが楽しそうかどうかを

最初に見極めるのが賢明だろうと私は考える。

 

たくさんあるが一つの分かりやすい

Youtube動画を以下にリンクとして貼り付ける

 

このブログは読み進まなくてもいいので

自分がLとRの発音が分かっているのか、

分からないなら知りたい!と望むのか、

それをまず内省してみて頂きたい。

 

https://youtu.be/7r4UgskSMJ8

 

私の実際の所感は、次回に続くこととする。

0304_忘れたら楽譜を読みなさい

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妻が父親が誕生日だと言うので

娘がピアノで弾き、誕生日の歌を歌い

動画を送信することになっていた。

 

しかしつい一週間前には完璧に弾けたものが、

娘は何度か失敗し、「あれ、忘れてる」と。

 

「ママ、忘れちゃった」と娘が言うと

間髪入れずに妻が言った言葉が印象に残った。

「覚えるんじゃなくて楽譜を読みなさい」と。

 

楽譜を覚え込むことより大事なのが

楽譜を読み込む素養を身につけること。

というのが妻のピアノ教育の主眼なのだろう。

 

理屈ではそう難しい理論ではないが

5歳の娘にまだピンとこないのがこの基礎の基礎。

 

私はピアノを習っていることには何も

口出しできない。なぜなら私は小学校の

笛テストすら全て合格できずにやり過ごそうと

して、怒られ続けた結果、職員室で先生の

席の横で練習をさせられたほどの、

音楽の授業の反復練習が嫌だった。

 

カラオケも音楽鑑賞も好きだが、

この手の基礎のトレーニングを幼少期に

やったことがなかったため、かなり縁遠い。

楽譜など全く読めるような気がしないのだ。

自分の家にピアノがあることが不思議なくらいだ。

 

ところが妻は自分が訓練してきたから娘も

できるはずだ、と自信を持って教育している。

 

娘もきっと、音楽の道に進まなくとも、

学校の合唱コンクールの際の演奏役くらいには

なれるのではないかと私は期待している。

 

さて、この、楽譜を読みなさいという感覚。

実はとても技術者の仕事にも合った考えだ。

 

基本的に私の仕事であるものづくりでは

部品一つ、回路一つ、全てに図面があり、

インバータやスイッチング電源など部品には

取説がある。何か不具合があれば、人に聞く

前に状況をよく見て取説や図面を確認するのが

技術者の問題解決の羅針盤になるのだ。

 

娘が楽譜の読み方を一生懸命に学んでいるのと

同じで、私も図面や取説から真理を導く力、

そして読まなくても大体はわかるという経験値を

技術者として身につけていきたい。

 

ところで、自分は世界で戦える技術者だと

自覚しだした頃から、過信は全くないが

時間をかけて苦労すれば分からない、出来ない

ということはないのではないかという感覚がある。

 

先に述べたとおり、私は小学校の頃、

笛テストがとても嫌いだった。

 

理由は明解。「これは大人になったら要らん」

と勝手に判断して楽をしたかったからである。

 

その判断が間違っていたとは言えないが、

"楽譜を読み解き表現してみる楽しさ"が

その頃にもし身についたなら、今よりもっと

若く、もっと力強く海外で戦う技術者という

夢に近づけたのかもしれないと振り返る。

 

子供の頃はとにかく、与えてもらえるか

与えてもらえないか、がとても大切だ。

与えてもらえなかった渇望はその後大きな糧と

なるが、それは親が考えることではない。

 

親はとにかく(自分が楽かどうかはさておき)

子どもに楽しさや厳しさなど学びうる全ての

教訓を、身をもって与えていかなければならない。

 

妻が楽譜を読めと言って、そのあと

懇切丁寧に「何回も教えたから覚えて」と

言いながら娘にリズムの取り方や、

音を強く弾く、伸ばすなどの判別の仕方、

習得には繰り返しの練習が必要であることを

渾々と説いている姿を見て、長女はおそらく

堅実に大きく育つだろうなと思うに至った。

 

ピアノに関して父としてできることは

頑張っている娘や妻を邪魔せず応援することだ。

 

そして父は楽譜は読めないが図面は読める、と

成長を遂げる娘に自慢できるような技術力を

身につけて備えることだ。

 

長く続く挑戦であって欲しいので支えたい。

0303_努力は試されてなんぼ

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マレーシアの活動制限令が出されて

今日で30日目の自宅待機生活となった。

家に長くいると考え事も長くできる。

 

実際のところ、5歳と1歳の子どもが

(マンション内や廊下も含む)外で遊べず

家の中だけで1日を過ごす日が1ヶ月。

これは私にも妻にもかなりの負担をもたらす。

 

考え事をしながら本を読みながらコーヒーを

飲みながら…というような時間は1日の中で

合計で1時間あれば良い方だと思う。

その時間に待つのは家事であり、作業だ。

 

日中子どもたちと遊び(戦い)続けた後に

家のことを全て終え、子どもたちが静かに

寝静まり、洗い物や洗濯を終え、さて。と

なってからはもはやゆっくりしたいだけだ。

 

これは仕事から帰った後に何も努力をしない

勤め人(私のこと)生活と何ら変わりがない。

 

ただ、今回記録をしようと思ったことは

忙しい子育てや、外出規制の中でも、

外の世界は目まぐるしく、良くも悪くも

成長を遂げており、また自分たちも生活を経て

良くも悪くも変容を遂げているという点だ。

 

その中ではっきり断言できると気がついたのは

「人の努力は試されてなんぼ」ということだ。

※なんぼ(なんぼのもん)=どれほどか分かる

 

暇な自宅待機(在宅勤務)生活の中で垣間見れる

のは、いくつもある。事例を一つ紹介しよう。

 

・私の在宅勤務について

私は現在工場勤務なので、工場に仕事場が

あり、作業がある。事務所に閉じこもって

できる仕事は通常限られている。しかし、

 

過去に資料作成や改善提案など、自分の時間

(休憩時間や終業後)に事務方の仕事を努力した

成果が報われて、会社から高機能のパソコンを

貸与して頂き、またインターネット環境も

整えて頂けた。これは過去の努力の果実だ。

 

今、試されているのはこの果実をいかに次の

収穫のための種まきに繋がるか、だ。

 

与えられたパソコンで上司から受けた英訳作業を

こなすのが今の在宅勤務の形を成しているが、

他方で私はこっそり整えようとしている領域が

あったり、この際ゆっくり読んで理解したかった

技術資料を読み込む、時間が取れずに視聴

できていなかった勉強会動画を視聴するなど、

隠れた努力をふんだんに行う機会を持っている。

これは与えられた自由であり、試されている自由だ。

 

与えてもらったことは素直に嬉しい、でいい。

しかし与えられたことは、また同時に試される

ことが多い。部活動をしたことがある人なら

分かるだろうが、試合に出る機会は、どんな人でも

最初の一回がある。(お遊びの部活は除き)

試合に出続ける価値があるか、試される

ところから始める意味で、試合に出る機会を

与えられるのだ。この外出規制についても同じ。

 

自宅で仕事をしていい、ということは

自宅で仕事を進めることができる人物かを

試す機会に他ならない。厳しい組織なら

「成果がないならば、悪いが出社する機会を

 与えることを辞めよう」となるのだ。

そうでないと会社は潰れて終わる。

 

"この人物は規制や自粛の環境下にあっても

「伸びる、行動する、価値を生み出す」"

と評価されたなら、いくらでもまた新しい、

与えられた(試される)自由を享受できるだろう。

 

これまで述べたこと、子育てはかなりの時間を

費やす。夜は体力も時間もあまり残っていない。

限られた時間的・環境的資源から価値を生み出す。

それらから行動すれば良いのだろうか。

 

それは「楽しむことと、知恵を出すこと」だ。

そうでないと、自分が持たないのだ。努力の

基礎を築くため、楽しく続けたい気持ちになる。

 

課されたことだけをやる人、与えられるものを

待っている人にとって、永遠の在宅が始まる。

と思い私は知恵を出すことを心がけている。

 

平和な時は楽しいから知恵が出る。

苦しい時はその知恵の貯金を使う。

今は貯金を貯めるために神が与えてくれた期間だ。

0302_ら抜き言葉と方言について

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ら抜き言葉について知ったのは

(そこまで育ちが良くない私にとって)

25歳かその前後だった、と記憶する。

つまり、日本語を習得してから20年以上、

"ら抜き"か、"ら入れ"かを考慮したことが、

またはそんな技術を伴う約束事があったことすら

知らなかったのである。親からは教わらず

学校の話は聞いておらず、日本語はただ使えれば

いいだけだと私は思っていたのだろう。

 

現在、箸の持ち方にせよら抜き言葉にせよ、

私は「基本」に忠実である。無理をして

口どもったり、他人の動向を気にするまで

ではないが、自分が基本に忠実かどうかに

ついて、注意を払っている。例えば、

「バナナだいぶん黒いけど食べられるやろか?」

というような問いを妻に対して投げることは

日常の中で基本となっている。

 

ここで日本語という観点で注目できるのは

・「やろか?」の部分は完全に関西弁である。

・「食べられる」というのは"ら入れ"の

 基本に忠実な(ら抜きしない)言葉遣いだ。

 

「食べれる」と、子どもの時から"ら抜き言葉"を

使ってきた私は道の途中で"ら入れ"の方が美しい

と判断して自分の言葉遣いを正した。

ところが関西弁に関しては、「標準語の方が

美しい、日本人にも外国人にも聞きやすい」

ということを知っていたとしても、変えない。

 

"より丁寧で聞こえやすい日本語は理想"と

自分の力を精錬する気持ちがある一方で、

"関西弁は基準より砕けた形でも気にしない"

という、その方が生きるのが楽しいから。

という哲学が私が使う言語を今の形にした。

 

もちろん、この言語体系は私だけのものではない。

類似する着想を持つ人は周りに多くいる。

 

工業高校を出て、いわば勉強をろくにしなかった

だろう先輩方でも、"ら抜き"を使わない先輩が

いる。彼もおそらく、より丁寧に言葉を扱う

という誰かの姿勢から、"らを入れる派"に

転じたのだと思う。これは箸の持ち方とは全く

違う。"ら"はあってもなくてもいいのだ。

ただ、文字にしたときには"ら"はあって然り。

それなら普段から入れとこうというのが

"より丁寧で見栄え良く合理的であること"を

期待する、技術者の中には多いのかもしれない。

 

私を含む日本人技術者の根底にあるのは

驚くような頭脳による明晰っぷりよりもむしろ

普段からどれだけ丁寧に過ごしているか

というところに終始すると私は考えている。

 

長く履いている靴が綺麗な人ほど、

丁寧に慎重に生きているのと似ている。

 

雑にさっさと生きてきた私はそんな人に憧れて

技術者になった。まだ間に合うと信じている。

0301_旦那が皿洗いをしない理由

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夫婦円満の秘訣と、人間の行動の本質について。

 

私は家事を分担するのが好きな性分だ。

理由はいくつもあるが、あえて言葉にするなら

 

・夫婦の負担を分かち早く終わらせたい。

・工場の製造部勤務で、作業が苦じゃない。

・自分のできることを最大限やりたい。

 

とまぁ、少し美化してこんなところだろう。

私が特に進んで行うのは、皿洗いである。

 

料理は好きだが片付けるのが嫌い、という声は

珍しくも何ともないが、私の妻は特に片付けが

嫌いなわけではない。きちんとしてくれる。

 

でも、私のほうが好きで進んでできるので

食後の片付けは私がやることにしているのだ。

 

これには、単純かつ明確な理由がある。

それは、妻を心から慈しむ想いかも

しれないが、実際はそれだけではない。

 

二つある。

一つは、私は厨房に立つ願望があるが、

料理は全くやる気がない、むしろやらないと

決めている、自分に誓っているということだ。

 

料理を全くやる気がないため、厨房に立つと

なれば料理の補助か、コーヒーを入れるくらいだ。

だが、片付けは、技術者向けだと感じる。

 

食器の並びや水切りカゴの配置、殺菌消毒、

炊飯器の内蓋洗浄、カトラリーの整理など

製造現場で働く身からすれば朝飯前程度の

簡単な作業をするだけで、1日の終わりに

誰かから感謝してもらえる機会なのだ。

 

妻と通った福岡の器屋さんにフランジパニ

という店があった。そこの素敵な店主は

私が皿洗いだけやりますと伝えると、とても

素敵なことを教えてくれた。仏教の世界では

天坐(てんぞ)といって、最高位の人が一日の

終わりに炊事場の掃除をすることを許される、と。

その話を聞いてから私は素直に、自宅の最高位

として天坐を美しくして終わろうと意気込むのだ。

 

二つ目の理由はユニークだ。

私は大学生の4年間勤めた飲食店のアルバイトで

週に3回も4回も皿洗いをしていたからだ。

正確には、バーカウンターでお酒を作る仕事で

グラスやコーヒーカップを洗っていたのだが。

その4年間は私にしかないもので、世の旦那勢が

おそらくは備えていないだろう立派な経験だ。

 

とくにアルバイト時代をふりかえることはないが

私は寒い冬場でも一度もお湯を使うことを

しなかったことや、食洗機を使わずに手で洗って

一つひとつ手で乾拭きしていたプロ意識が

いまだに体のどこかに残っているのだと思う。

 

現在。水垢がたまったステンレスのシンクを

パイプユニッシュを使ってピカピカにした時は

仕事で得られる充実感とまた違って、童心に

戻るように妻に喜んでもらおうと見せに行く。

 

バカのようだが、経験と意識があるから

皿洗いはもはや歯磨きよりも当たり前にやれるのだ。

よほど疲れていない限り面倒とは思わない。

むしろ皿洗いを妻に頼むのが疲れの兆しだ。

 

コーヒーや茶渋の残ったカップはオレンジの

皮と塩で綺麗にし、子供服はウエスとして

小さく刻んで使い捨ての台拭きにする。

 

水切りカゴに水勾配を持たせて撥水効果を

上げる、S字フックを用いオタマやトングは

お湯をかけ吊るして乾燥させてから収納する。

ティファールや電子レンジの配線をまとめ

濡れないよう見栄え良く束線する。など。

 

そんな細かな工夫を積み重ね続けることで

次は何を改善しようか、空想できるのだ。

全ては妻のためといえば綺麗事だが、

実際、私の皿洗いには大きな価値がある。

私が楽しむことこそが家族にとっての価値だ。

 

世の旦那が皿洗いをしない理由は、私のような

皿を洗い続けた経験が不足することが最大の

理由だろう。しかし、仕事でその考えは

通用しない。経験がないからやらせてもらえない

としたらやらせてもらえるよう努力するのだ。

 

実際、会議後に議事録を作ったり、飲み会の

会費を集めて回ったり、誰かがすべき仕事を

とっていける人ならば、まず皿洗いなど

序の口すぎてやらずにはいられない作業だ。

 

誰もが宴会部長や議事録係ではないにしても

その役割を担うかどうかは本人のやる気次第。

 

逆に皿洗いすら満足にできない管理者の指示で

私は仕事をするつもりはない、とも思う。

私の勤め先の屈強な男たちは、家のとこも

子育てのことも手を抜かず参加する者たちだ。

そんな組織にいるから私は劣らずにいられる。

0300_思う通りの未来は訪れる

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2008年に大学を卒業した私にとって、

日本が有給休暇消化を推奨する社会に

なることや、インターネットの普及で

家から出なくても何でも手に入る世の中が来る

ことは想像できていたが、実現するまでの

過程はとても長いだろうと感じていた。

 

実際にインターネット社会や、労働環境の是正は

まだ望んだ通り完全と言える状態ではないし、

社会の情勢は自分で変えられるものではない。

 

ただ社会が変わっていくだろう、期待したい。

といった想いは大抵が長い時間をかけてでも

技術的に、精神的に未来が叶えるものだ。

 

まだ叶っていないが叶うだろうこと。例えば

金木犀の香りを願った時に嗅ぎたいことや

習得していない言語をほぼ勉強せずとも

自動で翻訳できる道具が普及すること、

ガンに苦しむ人がいなくなってほしいことや

肌を蚊に刺されないようになってほしいこと。

 

これらは、人々がおそらく望むだろうことで

技術的には何とかなるだろうことだ。いつかは

きっと、「昔は癌で多くの人が死んだのだ」

「蚊にさされた時はかゆくて仕方がなかった」と

当たり前だったことがそうでなくなるはずだ。

 

しかし、思ってもいない世の中の変化もある。

今回コロナウイルスの感染拡大で、大衆の精神は

大きく影響を受けている。しかも突然に、だ。

 

私は2000年代初頭の高校生の時に、これからは

国際社会だから、日本以外でも苦なく住めるよう

と願って英語を勉強し始めた。今も続けている。

そして念願叶って海外で家族と暮らしている。

 

ところが「農業をやるべきだ」と気がついたのは

今から約10年も遡るが、そこからこの「農業」

については何の挑戦もないまま日が過ぎている。

 

ちなみに「東京中心」「テレビ中心」の

日本も変わるだろうと見込んだのも10年前だ。

25歳でテレビを見るのを辞めた。

 

農業をやるべきと感じたのは、他でもなく、

いつかは自分自身が全てを担える人間にならないと

異常気象がもたらす災いや、続く移住生活で、

自分が健康に生きていけないだろうから、と

感じたからである。

 

いまだに全く料理はできないし、妻に全て任せて

これからも生きようと思っているので料理は

これからもおそらく挑戦しないだろうが

農業については今かなり気遅れをしている。

 

家庭菜園でいいから、自分で楽しんで育てて

収穫する一定の周期を経験したいのだ。

 

思った通りの海外生活や、思った通りの家族構成、

技術者としてのキャリア、健康維持、仲間たち。

多くを欲張らずに、着実にやってきたので

苦しみながら、一歩ずつではあるが

自力で手に入る未来は何とかできた。

 

しかし、これから訪れるだろう社会には

農業が絶対に必要になると私は確信している。

 

日本に帰任になれば地方に赴いて近くに畑や

田んぼのある暮らしを実現できるよう行動したい。

 

この世の中は物々交換の連続でしかない。

という不動の構造の中で家族と強く生きるために

自分が本当にやらなければならないことを

考えると、食べ物を生み出せるのは強い。

他の技術はあくまで流行り廃りの中の一環だ。

 

娘が何か習得した時や仕事がうまくいった時、

思った通りの未来が来た時はいつも嬉しいが、

同時に悪いことが世の中で起きた時は

自分の思った未来が今すぐきたらどうしよう

という、大きな杞憂が自分の心を支配する。

 

私が心配するのは、世界のインターネット回線の

予期せぬ破綻だ。それは感染症よりも、怖い。

そんなことになっても家族を守るために

今はコミュニケーション能力や、土地勘、

人に頼りながら家族と生きる感覚を磨きつつ、

人に食べる物を与えられる力を育みたい。

 

それらが備わっていて、尚、便利な世の中で

生きられるのが自分にとっては最も理想的だ。