ガツンとゆるい所感

機械工であり、二児の父であり、世界20カ国で遊んだり仕事した旅人がお送りする、仕事や生活での気づきや学び。毎朝7:30に更新していき、1000件を目標に記述を残します。

0178_子どもたちの英語教育

子どもには英語ができるようになってほしい。

この種の願望はもしかすると子どもがいなくても

持ってしまうくらい強烈な日本人特有の願望だ。

 

もちろん私も妻もその想いは子育てを始める

前からどうするべきかという議論を交わしてきた。

 

議論を経て、我が家では外国語教育について

夫婦で意識合わせをした目標・テーマがある。

日本語をそつなく美しくすること、だ。

 

我が家は今年中に家族でマレーシアへ移住する

ことが予定されていて、また娘が2歳だった

2017年にはアメリカ人留学生受入を経験しており

夫婦の海外渡航歴は訪問国数でいうと30ほどと

社会一般的な家庭と比べると、国際的である。

 

妻は英語の教員免許を大学在学中に取得し、

私は海外営業や現在は機械工として海外駐在を

経験しているので、国際感覚はそこそこあるはずだ。

 

なので英語教育に関しても、自分が自分に

課したことや学校(大学含む)で学んだこと、

完璧に英語を習得した日本人から学ぶこと、

非ネイティブ、ネイティブとの関わりなど

たくさんの含蓄を踏まえた上で、英語教育は

こうあるべきという持論を持つようになった。

 

最初に、こうあるべきでないという視点。

 

知っている人にはうまく言えないことだが、

児童向けの英語学習にはとても大きな違和感が

ある。日本語ができないうちに英語をどうやって

習得するのだろう、という感覚だ。

早いに越したことないのが勝負の世界だが

幼児期に筋トレを開始するのが時期尚早なのと

同様に、子どもの学習キャパシティは意外にも

限られているので、英語と日本語とどちらも

正しく習得してもらうには時間が足りなすぎる

という感覚がある。あくまで感覚だ。

 

正誤が問われるのは成果を見るときだ。

娘には英語学習よりも、適切な日本語学習と

外国人とも通じ合えるという肌感覚だけを

この4年間は身につけてもらうようにしてきた。

 

息子は日本語学習が開始される前に海外へ渡る。

二者がどのような言語習得のプロセスを経て

社会で活躍するものか。成果を見るには

長く時間を要するが、美しい日本語を尊び、

古来の日本人らしい性質を言語や態度に表せる

国際人に育ってくれれば嬉しいかぎりである。

 

間違ってもカタカナ語を器用に使える、

敬語も礼儀もない日本人には育てたくはない。

 

話は戻って。私が持つ持論の続きだが

世界で活躍することがない人にとっては

英語を使って自分の可能性を広げ続けるには

限界があるだろうという極端な持論である。

 

これはもう間違っているという前提でいい。

しかし、私の個人的な見方はそうだと記録したい。

 

私の勤め先の代表は2013年にこう言った。

昔、そろばんが出来た者は計算が出来る者として

世の中で重宝され、活躍できた。しかしその後

電卓の開発と普及によって、万単位億単位の

精密な計算は自動機が行えるようになり、

そろばんの技術に取って代わった。

 

現在(2013年時点で)英語はどうか。

まだ自動翻訳技術が流布していないので

英語は特別技能のようにもてはやされている。

この時代も長くは続かないだろう、と。

 

その日から私は自分が英語ができる点について

特別視しないように、そして英語だけを武器に

社会で長く活躍するには限界があることを知り

「技術」を身につけるようになった。

 

技術も英語も自動化がかなり進んでいるが

それを自由に駆使できる頭脳は自動化できない。

 

私の持論は、自由度を保つためには

人のためになることを自分が自由に好きなだけ

できるようになるための肝となる要素は

長く時間を要しても身につけるべき。というもの。

 

習い事で何でも身につくなら、世界で戦う人間は

今のように一握りではなくなるはずだ。

自分のテーマを自分で努力して夢を掴もう。

 

そのとっかかりが幼少期の習い事になるなら

大きな見返りを伴う投資となるだろう。