0293_恥ずかしいから練習をする
毎日の暮らしや仕事の中で、失敗した後に
恥ずかしいこととそうでないことは分けられる。
例えば、毎日ではないにせよ、銀行でのお金の
送金は間違うと恥ずかしい。自分の大切なお金を
失ってしまうことに繋がるからである。
お金が水のようにあれば、失敗を気にせずに
寄付でも物販購入でも勇ましくやるだろう。
身なりにおいてもそうである。
私は作業員だが、汚れたままの姿は好まない。
朝一で汚れた作業員に仕事が美しい者はいない。
私の経験ではっきりと述べられることは
靴のカカトを踏むような技術者は、まず以って
技術の奥深さと戦う気概がない人間だ。
シャツを入れないとか、帽子をまっすぐ被らない
などということも、これと同等と言えよう。
何か自らを真っ直ぐにしないことで
言い訳を探して逃げているように私には映る。
さて話を戻して、失敗したら恥ずかしいかどうか。
それは人にとってその各分野における、
プロ意識の現れだ、と私は考えている。
悪いことを人のせいにしがちで、
学ぶことに億劫な人間ほど、安直なミスをする。
これは子育てをしていると頻繁に気がつく。
子どもはついつい楽しいことや、悲しいことの
衝動でミスをする。そして場合によっては
自分を守るための嘘をついたり、誰か周りの
せいにしたり環境のせいにしたりする。
もしプロ意識があれば、例え子どもだとしても
失敗に対しての言い訳はしないし、失敗を
大人と同様に、恥ずかしがることができる。
よく失敗を恐れずにいけ、と。ビジネス書や
自己啓発本に書いてあるが、失敗は恐れる
どうこうの前にまず、恥ずかしいことだ。
たが失敗を恐れて何もしないことは良くない。
そこは自分もそう思うが、プロになるならば
どうしてもやりたいが、その失敗は恥ずかしく、
細心の注意を払って誰にも迷惑をかけないよう
恥ずかしい目に合う、合わせることのないよう
胆力を持って挑戦する、ということが肝だ。
何をやっても失敗が発生し、時間はかかる。
その教訓は、失敗をたくさんして、時間をかけて
恥ずかしい思いをしながらも何とかして
自分の理想の姿に自分を近づけること、
そして誰かのためになるよう行動すること。
これを続けた人ならば言っていい台詞だ。
失敗を恐れるな、と。
恥ずかしいからやらない、は論外、
勇気を出さないからだ。失敗したら恥ずかしいが
自分ならできそうな気がする、だから挑戦する。
という気持ちを持つことが要点だ。そして
その挑戦は、失敗しようが成功しようが、
もう一度やった時に、もっと良くできる、
例えば主婦の方なら、一度挑戦した
不慣れな料理は、1回目はセオリー通りに
美味しく。2回目は部材購入含む時短で、
3回目4回目は自分や家族の好きや味付けとして
自分のスタイルに、していけるのがプロの主婦だ。
1回挑戦して美味しくできず、もうやらない
というのは、言い方は悪いが二流の主婦だと
思う。内容にもよるが、自分の力量や作業環境を
正しく把握している料理人ならば、その料理に
挑戦すべきかどうかを判断できるはずだ。
私の自慢の妻は料理の失敗は何に一回
あるかないか、だ。果敢に新しい料理に
挑戦する反面、不味いものを食卓にもたらす
ことは恥ずかしい、とプロ根性があるのだろう。
その意味で、練習がとても大切だ。
次にやらなきゃいけない時がいつ来ても
楽しくできる状態でありたいと思えるならば
それは歴としたプロ意識だ。それがゲームでも
服の着こなしでも。明日着る服を何にしようか
一旦考えて着て、シワをとって、かけておく。
それが身なりのプロの振る舞いだ。
恥ずかしいことは何もない、と言えるのは
自分の全行動領域を達観し、どうやっても
失敗しない(失敗しても迷惑をかけない)次元で
自分の行動を掌握できた人物だろう。
とりあえずやってみる、で失敗する、
恥ずかしくはない、人に迷惑はかける。
こんなことでは、日本人失格である。
どうあっても人は恥ずかしい間に合うし
この世界は常に挑戦が求められている。
胆力を持って挑もうではないか。